見出し画像

中国史書・古代漢字の正しい解釈による日本古代史(中島信文)

「九州王朝論の比較」とNOTE.COMに同時投稿します。


中島信文は、日本の古代史学者は、古代中国漢文を理解せず、記紀を盲信して、中国史書を無理やり誤訳し、その歴史記述を大きく曲解していると主張しています。

そして、記紀に比較して史書としての客観性の高い、中国の史書を正しく翻訳して、間違いだらけの日本古代史を訂正しています。

この投稿では、私見を交えずに、中島による日本古代通史の概略をまとめます。
中国史書の解釈に直結する内容と、それらをもとにして彼が推測する内容があります。


参考

*「古代中国漢字が解く日本古代史の虚偽と真実」中島信文(本の研究社)
*「『三国志』が明かす壮大で国際的な古代日本」中島信文(本の研究社)
*「日本国誕生の隠された秘密と真実」中島信文(本の研究社)



「倭」、「倭国」の本当の意味


古代中国の書では、古くは(紀元前)、「山海経」や「漢書」に「倭」の記載があります。

当時の「倭」の発音は「ゐ(ヰ、ウィ)」です。
「ワ」と発音されるようになるのは、五胡十六国時代の5世紀以降で、鮮卑系の北朝の影響によります。

そしてその意味は、「仁や礼に従う従順な民がいる場所」であり、儒教の理想郷です。
当時の儒教では、そのような地があると信仰されていたのです。
東方の島にあるとされた「蓬来山」と同様の神話的存在だったのです。

「委」と表記されても同じ意味です。

「大人国」や「君子国」も儒教の理想の国を指しますが、「倭」も同様の言葉です。
実は、「朝鮮」という言葉も、同様に儒教の聖地を意味しました。

「山海経」の「海内北経」に「蓋国は金巨燕の南、倭の北にあり。倭は燕に属す。」とあります。
この「倭」の場所は、半島北部に当たりますが、種族としての倭人がいた場所ではなく、仁や礼に従う従順な民がいると考えられた場所です。

この時代、「朝鮮」も半島北西部の地を指しましたが、この地の実情は知られるようになったため、理想郷として存在すると信じられた「君子国」を「倭」と表現したのです。

その後、中国の半島の情報が増えるに従って、「倭」の地は未知の地へと、つまり、半島南部に移動し、最後に、列島になりました。

「倭」が列島の現実の国を指すようになるのは、紀元後2世紀末頃以降で、史書で言えば「魏略」や「三国志」以降です。


上に書いた内容が正しいことは、「続日本紀」でも傍証されます。

704年の記述に、遣唐使に中国の役人が「海の東に大倭ありて、君子国と謂う。…礼儀敦く行はる。今使人看るに…本当に聞いていた通りである。」と言ったとあります。

つまり、「倭」=「君子国」=「礼儀正しい人のいる国」という古い認識を、8Cの中国人も知っていたのです。


古代漢字と邪馬台国・倭国の位置


まず、「海」、「川」、「水」という古代中国の漢字の意味は、五胡十六国時代頃までは、次の通りです。

「海」=河川敷、沼沢地
「川」=川の流れでできた大地の溝
「水」=河川

また、逆に、「海」を表現する漢字は、「大海」、または、「浦」です。

ですから、中国史書や、日本の古代の地名や和歌に、「海」という字があっても、河川敷やそこにある沼を指します。

「漢書」に「楽浪海中有倭人」という記述がありますが、これは「楽浪の先の海を渡ったところに倭人がいる」という意味ではなく、「楽浪の河川敷に倭人(=礼を守る人)がいる」です。
先に書いたように、この「倭」は儒教の信仰に基づく空想であり、現実の種族のことではありません。
楽浪は半島北西部にあります。

ちなみに、「三国志」を編纂した陳寿も「漢書」を読んでおり、「東夷伝」の最後の「評」のところで、「漢書」が書いている場所が、朝鮮と越(南京や上海付近)だという認識を示しています。

また、「漢書」の「呉地条」に、「海外に東鯷人あり」という記述があり、これが呉の東の海にある日本列島の国を指すという解釈がされることがあります。
ですが、呉は「山海経」で「大人国」があるとされた地であり、「東鯷人」も「大人」と同様の意味の創作された造語と考えるべきものです。


さて、次が本論となりますが、「魏志倭人伝」にある投馬国への道のりの記述の「水行二十日」、邪馬壹国への「水行十日」の「水行」は、いずれも「海を舟で行く」ではなく、「川は舟で行き、陸は歩いて行く」になります。

そうすると、瀬戸内海を渡って近畿へ行くと解釈した邪馬壹国の近畿説は成り立たず、邪馬壹国は北九州の筑紫平野にあったことになります。
これは、疑問の余地がありません。

ちなみに、その前の韓国を南下する道のりの「循海岸」は、「海岸線を船で回って」ではなく、「河川の土手を歩いて」になります。
当時、「海岸」という言葉はありません。


3世紀(三国志・普書)


陳寿の「三国志」は、「魏志倭人伝」で紀元3世紀前後の倭=北九州勢力を扱っています。

邪馬壹国は原始的なシャーマン的社会というイメージを持っている人が多いと思いますが、邪馬壹国を中心にした倭国は、漢王朝の文化や技術を吸収し、水運や道路の整備を行い、中央集権化をかなり進めた、人口も多い、東夷の中で最強国です。

それに対して、当時の高句麗や扶余族は部族共同体であり、三韓は単なる逃避地域で王都もありませんでした。

紀元1C末から3C初めにかけて、楽浪郡の衰退と動乱によって、漢人が半島南部への移動し、倭国は彼らから中国の新しい技術や文化を習得していたと推測されます。

倭国は、半島南部にも進出していました。
「新羅本記」には紀元前後から倭国の勢力が半島に侵入したり、友好関係を結んだりしてきたことが記載されています。

半島南部の狗邪韓国は、公孫氏から逃げてきた半島南部の漢人を、倭国が保護していた難民キャンプ的地域であり。倭国の準支配国だったと推測されます。

倭国の乱は、筑紫平野の国が福岡平野の国を破った戦いと推測され、筑紫平野にあった邪馬壹国が福岡平野も治めるようになりました。
そして、「女王国東渡海千余里、復有国、皆倭種」とあるように、中国、四国地方にも、倭国(北九州勢力)の影響があったと推測されます。

「東南至奴国百里」などの「陸行」の「方向+場所+距離」の形式の記述は、倭国内が道路の整備がなされている公道的な道があったことを示しています。

また、「南至邪馬壹国女王之所都水行十日」などの「水行」の記述は、河川の水運の整備がなされていることを示しています。
福岡平野の三笠川から筑紫平野の宝満川を経て筑紫川という、福岡平野と筑紫平野を結ぶ水路が整備されていたのでしょう。

陳寿は、「東夷伝」の序文に「中国に礼が失われたとき、その礼を四夷に求めること、なお信である。」と書いています。
そして、邪馬壹国の葬儀の様子についての記述は、儒教を意識した内容です。
陳寿は、倭国に儒教の良き世界が残っていることを伝えたかったのです。

238年に卑弥呼が魏の明帝に使者を送り、「親魏倭王」の称号を得ましたが、「親魏」の王はクシャーナ朝の王と倭の女王だけに与えられた最高の称号です。
それには、それなりの理由があったハズです。
魏は、高句麗や三韓に対しては、王を名乗れる独立国とさえ認めていません。

この時期、半島の楽浪郡、帯方郡は魏の支配下にあり、魏は、遼東、遼東、遼西に集結していた公孫氏を背後から牽制していました。
魏にとって、半島を支配下に置き、高句麗や扶余族を牽制することで公孫氏の味方につかせず、また、公孫氏を撃つ際に半島に逃亡させないことが重要でした。

魏は公孫氏包囲網のために倭国と同盟を結び、倭は半島にいた公孫氏側の勢力を魏と共に撃ったと推測されます。
だからこそ、卑弥呼は使者を魏に派遣することができて、「親魏倭王」の称号を与えられたのでしょう。

倭は、隋の後の西晋とも同様の関係を続けていました。
「晋書」によれば、倭国は、旧弁韓地域を足がかりにして、西晋の帯方郡に協力して旧三韓地域を治めていたと推測されます。

ですが、倭は267年頃以降、半島南部で独自の動きを見せ、朝貢記述もしなくなりました。


4世紀(普書)


日韓の4世紀の古代史の定説では、記紀や「三国史記」を頼りに、半島を支配していたのは、高句麗、百済、新羅の3国だとしています。

ですが、「晋書」などの中国の史書では、馬韓、辰韓だけが国として記され、高句麗、百済、新羅は他国に属する小勢力に過ぎません。

さらに、多くの史書で、当時、高句麗は河北の遼東・遼西、百済は遼西にあったとされ、半島にはいません。
百済が半島に移ったのは、「魏書」によれば5世紀に北魏に圧迫されてからです。

4Cの半島は、北部は慕容部一族が支配し、南部は倭が進出を進め、現地勢力は、倭と連合を組む過程で新羅、加羅、任那が生まれました。


5世紀(宋書・梁書)


「宋書」は「三国志」の記述を継承しており、「宋書」が記載する5世紀の「倭の五王」は、北九州の王であることに疑問の余地がありません。

ですから、「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国、渡平海北九十五国」という記述は、列島西部の東夷である北九州勢力が、九州から東の毛人や、北の朝鮮を征伐したという意味になります。

「宋書」によれば、倭王の珍と武は上奏文で以下のような称号を名乗り、それを宋が認めています。

珍:都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王
武:都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事・安東大将軍・倭国王

これは、5世紀も倭国が半島南部の支配を継続し、さらにその影響力を強めていたことを示します。
つまり、半島南部の宗主国として、北部の高句麗と対峙していました。

倭国は、馬の生産力を増し、半島より進んでいました。

武は勝手に皇帝に継ぐ官職の「三司」を名乗っており、中国王朝と遜色のない国として上奏文を差し出しています。
5Cの倭国は、君臣関係を明確にした王朝制度が進み、貴族文化が生まれていたと推測されます。
倭国は、漢文化を継承しているという高いプライドを持っていました。

一方、当時の倭国は、鮮卑系の北魏(北朝)を軽視して朝貢していません。

また、「梁書」には、倭国の東北7千里に「文身国」があり、さらにその東5千里に「大漢国」があるとなっています。

倭国を北九州勢力とすると、「文身国」は水銀の産地とも書かれていて、近畿地方の国であり、「大漢国」は関東か中部地方の国です。
近畿を倭国とすると、「大漢国」は海の中になるので、この解釈はありえません。


6世紀(梁書・隋書)


「隋書」の語る6世紀の倭国(俀国)に至る記述には、「俀国在百済新羅東南水陸三千里於大海之中依山島而居」とあります。
半島の東南3千里にあるということで、やはり北九州を指します。

また、筑紫の東の秦王国から倭国の都の邪麻堆に至る記述の「経十余国達於海岸」は、海を渡って(近畿に)到達したではなく、河川敷・台地を通ってであり、九州内を示します。

また、「其国境東西五月行南北三月行各至於海」は、東西が海に達するではなく、河川敷・平野に達する、です。

邪麻堆の場所は、筑紫平野です。

6Cの中国は動乱期、半島は三国時代になりましたが、倭国は、中国の戦乱の影響を受けず、漢文化の熟成・完成期になりました。

倭国は、中国、半島に対する興味が薄れ、半島進出は停滞しましたが、「隋書」に「新羅と百済は倭を大国で…尊敬しあこがれている」とあるように、大国としての地位を継続していました。

また、「竹斯国より東の国々は皆、俀を宗主国として、その保護と支配を受けている国である」とあるように、倭国は列島の統一国に発展しました。
また、馬の生産に適した九州南部にも進出しました。


7世紀(旧唐書・新唐書)


「旧唐書」には、「倭国伝」と「日本伝」があります。

倭国の場所は「三国志」以来の内容を継承しており、北九州を指します。

「隋書」の記述する倭王の多利思北狐は、隋の煬帝に対して「日の昇るところの天使」と、対等な名を名乗っており、鮮卑系の隋を軽んじていたことが分かります。

「旧唐書」でも、631年に唐の使者と礼を争って追い返したとあり、唐に初めて朝貢したのも、唐建国12年目です。
ですから、倭国は唐に対しても同様に軽んじていたようです。

「日本伝」では、日本は西と南が大海、北と東は山脈とありますが、これは西=瀬戸内海、南=太平洋、東=日本アルプスであり、日本は近畿の国であると推測できます。

唐・新羅連合軍が、661年に百済、668年に高句麗を打ち、北九州の倭国は危機的状況が訪れ、動揺や混乱をきたしました。

唐は冊封体制ではなく、都督府を置いて直接的に近い支配体制(羈縻支配体制)をしいていいて、新羅に対しても、独立を認めていませんでした。

そのため、倭国は、近畿への遷都を企てたと推測されます。

書紀には、663年に、白村江で倭・百済連合軍が、唐・新羅連合軍に敗れたと記載されています。 
ですが、「旧唐書」の「本紀」にも「倭国伝」にも、唐が倭と戦った記述はありません。

「旧唐書」と「新唐書」の「百済伝」では、「白江の河口で、百済の再興勢力の扶余豊の衆と出会い、4回戦ってすべて勝利し、400船を燃やした」とあります。
ここに海戦を行ったという記述はなく、河川敷での戦いと思われます。

また、「扶余豊の世話をしていた士女と共に倭の衆はいた」とあるますが、倭兵がいて戦ったとはありません。

あまり信頼のできない武将伝である「劉仁軌伝」には、ここで「倭兵と戦った」とありますが、これは武将を持ち上げるために、「日本書紀」を参考に「百済伝」を改竄したものと推測されます。
実際、「本紀」と「百済伝」では、「白江の河口の戦い」は662年の出来事であるのに、「劉仁軌伝」では663年になっていて、これは書紀に合わせたからと考えられます。

いずれにせよ、唐が倭と書紀にあるような本格的な戦いをしたというような記述はありません。
当時の唐の戦力は半島を一気に支配できるような規模ではなく、倭との戦闘も考えていなかったでしょう。

665年に高宗が泰山で封禅の儀式を行った際、倭国の酋長も参加し、劉仁軌に倭を従わせたとありますが、これは百済滅亡後に危機感を持った倭が新羅を通して唐に対して恭順の意を示したのでしょう。

「旧唐書」の「日本伝」は、その半分以上が日本の高い文化について述べていて、日本や倭に関して敵対的な国としては記述しておらず、漢文化を持った国として好意的な見ています。

ですから、倭(倭国や日本国)は唐と本格的に戦っていません。


「倭国伝」での倭国の情報は648年であり、「日本伝」での日本の朝貢は703年です。

また、「日本伝」には、
「或る者は倭国という名称が雅美でないことを嫌って日本に改めたと。また、日本はもと小国であったが、その後、倭国の地を併合した。…その多くが自国を広大と自慢し、真実を持って対応しようとしない。従って中国側としては、彼らの主張するところに疑念をもっている。」
とあります。
日本側の説明は、中国を納得させるものではありませんでした。

いずれにせよ、この間に、倭の近畿への遷都が、順調に行われたと推測されます。


8世紀と日本書紀


「古事記」は「宋書」と「魏書」を参考しており、「日本書紀」はこれに加えて「漢書」、「三国志」、「隋書」を参考にしています。

書紀は、神武東征にあるように、九州勢力が近畿に移動した点では、中島の推測する歴史と一致しますが、時間軸は異なります。

また、書紀は、7世紀に近江遷都という形で遷都についても語っていますが、これは北九州からではありません。

書紀は、二回に渡って歴史の改竄を行いました。
第一次改竄は、大和政権が紀元前から近畿に存在したという物語に、です。
第二次改竄は、百済を重視する内容に、です。

桓武天皇は生母が百済系で、当時の藤原氏は百済派と組んでいたので、第二次改竄後の現書紀は、桓武期の790年前後に成立したのでしょう。
ちなみに、「続日本紀」に790年に国史編纂の記述があります。

天智天皇、天武天皇にまつわる記述の多くは虚構でしょう。
天武は九州の倭王で、天智は近畿地方に派遣された倭王の親族の可能性が推測されます。

桓武天皇による平安京遷都は、天武系勢力を脱して天智系の都を作る意図があったのでしょう。
ですから、桓武天皇前後に、王朝交代があったと考えられます。



いいなと思ったら応援しよう!