見出し画像

消された月神信仰:筑紫、出雲、丹後、伊勢…

現在、皇祖神はアマテラスとされていますが、記紀を読めば、いくつかの箇所でタカミムスヒが主神のような働きをしていて(例えば日本書紀本文ではタカミムスヒが天孫降臨を司令している)、皇祖神はもともとタカミムスビだったということを、多くの論者が指摘しています。

また、田村圓澄によれば、記紀のアマテラス像は、天武期に説かれるようになった、護国の経典「金光明経」の太陽のように輝く仏の影響を受けています。
この時期、白村江の戦いの敗戦の責任のない新しい神が求められたこともあります。

また、持統天皇の時に、日神の巫女だった大日孁貴を日神に昇格、合体させて、女神のアマテラスにしたと指摘する論者も多くいます。
女帝の持統は、孫の文武天皇に皇位を継承するために、自身を女神アマテラスに重ね、孫が降臨する神話を作る必要があったからです。
持統は、これが新たな「日本国」の始まりと考えていたのでしょう。

ちなみに、アマテラスは物部系の男性の日神アマテル(ニギハヤヒ)と区別され、現在も前者の神社は神明神社、後者の神社は天照(御魂)神社と呼ばれます。


記紀では、三貴神の中で、アマテラス、スサノオに比して、ツクヨミの陰があまりに薄く、ツクヨミなどの月神信仰が意図的に消されたのではないかと、疑いたくなります。

世界的に、太陽神信仰よりも古層に月神信仰があることが一般的です。
日本でも、縄文時代の土偶を見れば、月神信仰が盛んだったことが推測されます。
日本には海人が多く、潮を司る月神が重視されたことが推測されます。


本稿のテーマは、大和朝廷が日神を皇祖神としたことで、大和の敵対的な勢力だった筑紫、出雲、丹波などが重視していた月神信仰が、消された、あるいは、抑圧されたのではないかということです。

ただ、古代に消されたものを復元するのは困難な作業であり、弱い論拠をもとに想像するほかないことを断っておきます。



アマテラスは月神だったのか


三浦茂久は、「万葉集」では「アマテラス(アマテル)」という言葉は、ほとんどが「アマテラス(アマテル)月」として、「海(あま)を照らす月」という意味で使われていると指摘しています。

つまり、「アマテラス(アマテル)」とは、本来、主に月を形容する常套句であり、月神の形容詞でもあり、あるいは、その名の一つだったのかもしれません。

また、一般に銅鏡は日神の祭器とされますが、「万葉集」では、「鏡」を月の象徴として使っている歌が多数ありますので、そうとは決めつけられません。

ちなみに、紀伊国一の宮の日前神宮は、アマテラスを映す鏡(日像鏡)を祭っていますが、この神社があるのは、和歌山市の「秋月」です。
「日前」とは日の出前のことであり、満月の頃なら、西に月が見えます。


アマテラスが月神を指した名残が、伊勢にも残っています。

伊勢神宮の「内宮神楽歌」には、「アマテラス」を月とする歌が残っています。

また、内宮の秘伝書「倭姫命世紀」には、多賀宮(外宮の別宮)に祀られているアマテラスの和魂が「月天子」であると書かれています。

*現在は、トヨウケの荒御魂が祀られているとされる。

そして、荒祭宮(内宮の第一別宮)に祀られている「アマサカルムカツヒメ」は、アマテラスの荒御魂とされますが、三浦によれば、この名は「天の極みに登って西に向かう月」を表現します。

だとすると、本来の伊勢の祭神は月神アマテラスであり、和御魂、荒御魂がともに遷座され、代わって日女神アマテラスが内宮に祀られたのかもしれません。


また、「山城国風土記」には「アマテルタカミムスヒ」という名が出て来ます。
この名は、「海を照らす月神のタカミムスヒ」という意味ではないでしょうか。

三浦は、タカミムスヒも月神であると推測しています。
タカミムスヒは「高木神」ですが、この木は「ケヤキ」であり、その古名は「槻(ツキ)」であり、「月」と関係しているのだと。

であれば、伊勢の本来の神としてのアマテラスは、月神タカミムスヒだったのかもしれません。

天武が壬申の乱の時、伊勢のアマテラスを拝んで戦勝したことは有名ですが、これが史実だとして、その正体はどんな神だったのでしょう。


ちなみに、「ヒコ」、「ヒメ」、「ヒルコ」、「ヒルメ」、「ヒミコ」などの「ヒ」を「日」と解釈し、あるいは、「日」と表記することがあります。
それゆえに、これらの名を持つ人物は、日神信仰を持つ、あるいは、日の巫女であると言われています。
ですが、これは後世の解釈であり、「ヒ」は本来は「霊」(タマシヒのヒ)の意味だったと推測されます。


筑紫一の宮の高良大社の玉垂命


久留米市にある筑後一宮の高良大社の祭神は「高良玉垂命(コウラタマタレノミコト)」です。

「高良玉垂宮縁起」によれば、この神は、神功皇后異国征伐の際の功臣である藤大臣であり、皇后の祈請に応じて筑紫に降臨した月天子(月神)です。

また、「玉垂命」の御廟の横には月読神社があります。

この神が月神であれば、「タレ(垂れ)」とは、月が霊力である変若水を地上に垂らすことを意味するのかもしれません。
また、韓国語の月は「タル」ですが、これが関係しているのかもしれません。


古賀達也は、大善寺玉垂宮の座主がいた坊跡を天皇屋敷と言い伝えているなどを根拠に、「玉垂命」を倭国王(九州王朝の天子)の称号であり、倭王の祖の「旨」に由来するという説を提唱しています。
「旨」は、石上神社に伝わる七支刀銘文中に見え、九州王朝説を提唱した古田武彦が倭の五王の一代前の王に比定した王です。

「万葉集」には、「大君は神にしませば水鳥のすだく水沼を都となしつ」(四二六一、読み人知らず)という歌があり、当時、久留米の水沼(三瀦)が倭国の都だった証拠となります。

ちなみに、高良山には、天然記念物の、金色に光って見える孟宗金明竹があります。
月神の山に光る竹があるので、竹取物語のモデルがここだと考えて間違いないのではないかと思ってしまいます。
であれば、かぐや姫のモデルは、月神への信仰を尽くした九州王朝の姫ということになります。

「チクシ(筑紫)」の「筑」は、竹の棒を使って演奏する楽器ですし、「チクシ」は中国の史書では「竹斯」とも書かれます。
ですから、「チクシ」という地名は、竹を介して、「月」と関係が深いのかもしれません。


灰塚照明によれば、「高良玉垂命」も、壱岐のツクヨミも「タカガミ」と呼ばれています。

室伏志畔は、「高神(たかがみ)」とは、天孫降臨した一族の祖である神々のことで、タカミムスヒやツクヨミを含むと推測しています。

実際、高良山には高樹神社もあり、もともとは高木神(タカミムスヒ)を祀っていたとも言われています。

室伏は、古田説を修正して、天孫降臨の主部隊は、壱岐島のツクヨミを祭る一族(ニニギの母系)だったと書いています。

壱岐島には月読神社、高御祖(たかみおや)神社があり、降臨(九州上陸)した筑紫の高祖山連邦の裾野には高祖(たかす)神社があります。

室伏も、タカミムスヒを月神系の神と考えます。
そして、大和朝廷は、傍系(ニニギの父系)だった対馬の日神アマテラスを祭る一族が王朝交代をなしとげたもので、祖神をツクヨミ、タカミムスヒからアマテラスに変えたのだと。


隋書が書く倭国王


「隋書」には、「倭王(正しくは俀王)は、天を以て兄となし、日を以て弟となす」と書かれています。
通常は、天が倭王の兄で、太陽が倭王の弟、の意味で理解されています。
ですが、倭の兄王(祭祀王)は天を祀り、弟王(政務王)が太陽を祀るというのが、倭側が伝えようとした内容ではないかと思います。

いずれにせよ、記紀とは矛盾します。
ですが、この倭国とは九州王朝のことだと考えるべきです。

この時の倭王の阿毎多利思北孤は、中国に対して「日出処の天子」を名乗りましたから、天子として天を祀ったと伝えようとしたはずです。

ですが、兄王が祀るのは夜と書かれているので、「天」というのは、実際には北極星か月でしょう。
北極星なら中国に対して堂々と主張できますが、月だから伏せたのかもしれません。

三浦茂久は、古代天皇の名によくある「タリシヒコ」の「タリシ」は「足りし」であり、「満ち足りる月」、つまり「満月」を意味すると述べています。
であれば、阿毎多利思北孤(アメノタリシホコ)も「満月」の倭王となりますから、彼が祀ったのは月でしょう。

このように、「隋書」からも、倭王は月神を祖神として祀っていたことが推測されます。


九州王朝と日本書紀


「新羅本紀」には、699年に、九州で反乱があったと記されています。

九州王朝説の多くの論者は、その2年後の大宝律令が出された701年に、大和朝廷への王朝交代によって日本国が正式に成立したと考えます。

701年には、藤原不比等ら5人が褒賞に預かっています。
王朝交代に尽くしたということでしょう。
竹取物語で、かぐや姫に求婚してふられる5人の貴族は、この5人をモデルにしています。

「続日本紀」には、708年に、山沢亡命者が禁書を狭蔵しているので、それを手放して罪に服するように呼びかける記事があります。
これは、九州王朝の残存勢力が蔵している史書を押収しようとしている記事でしょう。

「続日本紀」には、720年に九州南部で隼人の反乱があり、これを討伐したと記されています。
九州南部は九州王朝が最後の砦にした場所なので、実際は、九州王朝の最後の勢力の討伐だったのでしょう。

そして、この年、「日本書紀」が完成しました。
九州王朝の史書が完全に没収されたことで、書紀を完成させることができたのでしょう。

ちなみに、鹿児島県には月読神社が2つあり、十五夜に関わる風習が多く残っています。
この月神信仰は、隼人によるものとされますが、隼人と九州王朝が月神信仰で結びついていたのかもしれません。


出雲の佐田大神


出雲では、古代から勾玉を神宝として重視し、作り続けてきました。
勾玉は、水野祐によれば、三日月の形です。

三日月は再生したばかりの月なので、月神の再生の霊力の象徴です。
再生した月は、人間で言えば、生まれたばかりに胎児であり、勾玉は胎児の形でもあるというダブルミーニングだったのでしょう。

坂田千鶴子は、「出雲国風土記」の月女神に関する「加賀伝承」が、削除、改変の対象になったと言います。
実際、多くの写本では削除され、記されているものも分割され、異なる記述になっています。

加賀伝承というのは、島根半島北端の神埼にあり加賀社と呼ばれる洞窟の伝承で、佐田大神の誕生譚です。

「風土記」に語られる加賀伝承では、カミムスヒの娘で、貝の女神のキサカヒメが、金の弓矢を取って暗い洞窟を射通して、佐太大神が生まれました。
父は麻須羅神(ますらかみ)と表現され、具体名が隠されています。

佐太大神は、大神であるにも関わらず、伝承がほとんど残っていません。

坂田は、加賀伝承が、本来は、月母神の創世神話であったと推測しています。
そして、大和朝廷の意図によって改変される前の形を復元しています。

それによれば、キサカヒメは月女神であり、洞窟の主であり、満月の神でした。
この女神が、金の弓によって太陽を射落として、新月の御子である佐太大神を生みました。

これは、夕方に新月が弓で太陽を射落として西空に生まれるという神話がもとになっています。
中国の射日神話もこれがもとになっていて、月神(月の精)の嫦娥(姮娥)の夫である羿が太陽を射落とします。

「加賀(カガ)」の地名は、月光の輝きを意味し、金の弓は三日月の象徴です。

貝の女神であるキサカヒメは女陰であり、洞窟はキサカヒメの子宮であり、そこにある乳房石は乳房です。
女神はこれらによって、新月を生みます。
記紀ではアメノウズメが女陰と乳房を見せて岩戸からアマテラスを引き出しますが、これには加賀伝承との類似があります。

「佐太(サタ)」は、「更」+「足」、つまり、再生して満ち足りる満月を意味します。
伊勢のサルタヒコも佐太大神と同体の神でしょう。

坂田は、佐太大神は洞窟で生まれたので、オオナムチ(大穴牟遅)と同体であると言います。
「風土記」には、なぜか大神オオナムチの出生譚も系図も残されていません。
「古事記」では、キサカヒメら貝の女神がオオナムチを再生させるので、これは、オオナムチがキサカヒメの子であった痕跡かもしれません。


このように出雲には強い月信仰があり、洞窟での誕生の神話があったので、アマテラスを祖神とする大和朝廷によって消されたのでしょう。


丹後の豊受大神


弥生後期から古墳時代にかけて、丹後、丹波、但馬、若狭を合わせた地域に、「旦波(太迩波、タニハ)王国」が存在しました。

この国は、近畿・東海における日本海交易ルートの表玄関であり、早くから独自に半島交易を行い、大田南2号墳からは、卑弥呼の50-100年前に当たる2C後半の後漢製の画文帯神獣鏡も出土しています。


丹後国一の宮は籠神社です。

籠神社の祠官を務めてきた海部氏は、彦火明命(アメノホアカリ)を祖としています。
三浦によれば、「ホアカリ」は「仄かな明かり」で、月の形容詞であり、月神信仰を示します。

籠神社の祭神は、伊勢外宮に鎮座する豊受大神(トヨウケ、トユケ、トヨウカ)であり、丹後から遷座した女神です。
トヨウケは御食津神とされますが、月神という側面も持っているようです。

「後鎮座本紀」、「御鎮座伝記」、「宝基本記」には、トヨウケは月から天下った神と書かれています。
これらは中世の書ですが、古代からの伝承を基にしているかもしれません。

また、トヨウケを祀って丹後から伊勢に移住した度会氏が住む度会郡には、月読宮や月夜見神社があるので、彼らが月神を重視していたことがわかります。


「古事記」では、ツクヨミが食物女神のウケモチを殺すとその体から五穀などが生じたと語られ、「日本書紀」でも類似した神話が語られます。
食物神と月神は関係するようです。
トヨウケも食物女神であり、月神の関係を暗示します。

これは、名前からもうかがえます。
古代は太陰暦なので、月で日を数えました。
「ツイタチ」は「月立ち」であり、「フツカ」、「ミッカ」…「ミソカ(30日)」の「カ」は月(月夜)を意味します。
食物神「トヨウカ(トヨウケ)」、「ウケモチ」、「ウカノミタマ」の「カ」や「ケ」も同じで月神と関係するのでしょう。


丹後には天女伝説があり、天女はトヨウケと同体です。
「丹後国風土記」では、天に帰れなくなって追い出された天女が、「槻(つき)」によりかかって泣きます。
これは、天女の故郷が「月」であることを示しています。

また、四道将軍の一人として丹波に派遣されたとされる丹波道主一族も、月神の子孫を称していました。


このように、丹後では、月信仰が盛んだったようですが、トヨウケをアマテラスに対する御食津神として伊勢に遷座したことは、太陽神が月神を、皇室が月神氏族を従属させていることを意味するのかもしれません。


*主要参考書

・三浦茂久「月信仰と再生思想」(作品社)
・古賀達也「九州王朝の筑後遷宮」WEBページ
・古賀達也「筑紫の月神「高良玉垂命」WEBページ
・室伏志畔「伊勢神宮の向こう側」(三一書房)
・ネリー・ナウマン「光の神話考古」(言叢社)掲載の坂田千鶴子「『出雲国風土記』砕かれた縄文月神話の復元」
・宝賀寿男「越と出雲の夜明け」(法令出版)



いいなと思ったら応援しよう!