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雑念から創造を引き出す瞑想法

人は何かに集中していても、あるいは、何も考えないようにしていても、心には、しょっちゅう「雑念」が生まれます。
ほとんどの瞑想法では、この「雑念」は追い払うべきものです。

この投稿では、まず、仏教各派のいくつかの瞑想法を取り上げて、その「雑念」に対する態度の違いを比較し、そこに「雑念」に対する可能性を探ります。

その後、いくつかのラディカルな心理療法をヒントにしながら、「雑念」に意味を見出し、それと向き合い、創造的な成果を生み出すための、広い意味での瞑想法を考案します。


雑念


一般に、仏教の瞑想法は、「集中する瞑想(止、サマタ)」と「観察する瞑想(観、ヴィパッサナー、気づき瞑想)」に分けられます。


何らかのイメージや観念、テーマに集中する瞑想法、イメージを思い描く観想法、無念無想の瞑想などは、「集中する瞑想法」です。

これらの瞑想法では、集中する対象、保持する状態と無関係な「雑念」は、基本的には、邪魔なものであり、捨て去るべきものです。


また、何からの現実の対象を観察する瞑想法や、教義を洞察する瞑想法は、「観察する瞑想」です。

正式な上座部のヴィパッサナー瞑想も、大乗の中観派、唯識派の観法(ヴィパッシュヤナー)も、順に様々な対象を観察していき、それぞれの教説を洞察して確認していきます。

これらの瞑想法でも、観察する対象と無関係な「雑念」は、基本的には、追い払うべきものであり、無視すべきものです。


仏教では、瞑想に集中できない理由を、欲・怒り・惛沈(眠気)・掉挙( 心が浮つくこと、後悔)・疑いの五蓋として分類していて、どれが原因かを見極めて、それぞれの対処をします。

これは、「雑念」への対処法でもあり、「雑念」をなくすべきものとしています。


ですが、各派の瞑想法によって、「雑念」に対する考え方、対処法には、わずかではあります、微妙な違いがあり、中には、かなり肯定的なものもあります。
また、「雑念」を観察する瞑想法もあります。

以下、まず、曹洞宗の「只管打坐」(日本)、マハーシ流のヴィパッサナー(ミャンマー)、スカトー寺流のチャルーン・サティ(タイ)、そして、ゾクチェンのトゥゲル(チベット)の、「雑念」に対する態度を比較します。


曹洞宗の只管打坐(日本)


道元禅師が始めた曹洞禅の「只管打坐」の瞑想法は、目的意識を持たずに、ただ無心に座り、「雑念」が浮かぶと、それを自覚して、そのまま捨てて、無念無想の状態に戻ります。

ちなみに、この時、特定の感覚対象に集中せず、すべてに平等に気を向けて、観察する主客の分離もなくします。

環境と一体化する状態であり、真理の認識ではなく、真理自体(仏)になることを目指します。

人はもともと悟っているのだから、煩悩をなくす必要がなく、悟った状態を現わすだけで良いという思想に基づきます。

「只管打坐」では、「雑念」に気づいて、それを追いかけずに手放せば、追い払おうと作為せずとも、自然に消滅すると指導します。

ですが、「雑念(思考)」を不要なものとしていることには変わりがありません。
仏の状態が現れているとするのは、あくまでも、「雑念」がない状態の時です。

これは、日常の中においても、同様です。
その時に行っていることに集中して、それになりきります。
それに関わる言葉は、執着がなければ否定しませんが、無関係な「雑念」は捨て去るべきものです。


マハーシ式のヴィパッサナー(ミャンマー)


ミャンマー上座部のマハーシ・サヤドーが、在家向けに始めたヴィパッサナー瞑想(気づき瞑想)は、呼吸にともなう腹部の動きや感覚に集中して(アンカーする)、それを言葉にしながら(ラベリング)、観察します。

他の「雑念」に意識が移った場合は、それを自覚、観察し、「雑念、雑念」などと言葉のラベリングをすると、それは消滅するので、また、腹部の動きに集中を戻します。

歩行しながら、歩行する足の動きや感覚を対象にする(アンカーする)場合もあります。

最終的には、日常の中でも自覚を保ち、行っていることを観察し続けるようにします。

観察の目的は、対象が生滅する無常なものであり、それに対する執着は苦をもたらすものであることを認識し、執着をなくすことです。

ですから、マハーシ流では、「雑念」が起こらないようにはしませんし、「雑念」を無視せずに観察します。

ですが、それは、あくまでも、智恵を獲得して執着をなくすことを目指すためです。
「雑念」自体に意味を見出すわけではありません。


スカトー寺式のチャルーン・サティ(タイ)


タイ上座部のスカトー寺で、ルアンポー・ティアン師やルアンポー・カムキアン師が教えるヴィパッサナー瞑想の一種に「チャルーン・サティ(=気づきの開発)」と呼ばれる方法があります

これは、決められた一連の手を動かす動作をしながら、その手の位置や感覚に集中して(アンカーにして)観察します。
ラベリングはしません。

そして、「雑念」が生じたら、それに気づいて、実感し、洞察し、また、手に意識を戻します。

この手動瞑想とともに、歩行に集中する(アンカーする)歩行瞑想もあります。

マハーシ流に似ていますが、スカトー寺流では、「雑念」に対してあまり否定的にならずに、それを「ありのまま」に見ることを重視します。

スカトー寺に学んだ、日本人のプラユキ・ナラテボー師によれば、「雑念」という言葉は使わず、「雑念」に対して「ありがとう」と言ってそこから学ぶこともします。
「雑念」に価値を発見して、それが智恵につながることもあると言います。

「雑念」に気づいても、正規のヴィパッサナーやマハーシ流のように、その生滅の観察だけにこだわらず、広く心の洞察を行うようです。

例えば、「過去や未来の思考によって苦しまされていた状態から、過去から学び、未来の展望を明るく描けるようになるという感じに思考の質を変容させていける」と書いています。
ですから、普通に言う意味で、心を理解して、前向きに思考できるようになる、ということも説いています。

「雑念」は、自身の悪い状態を知るきっかけになるといことでしょう。


ゾクチェンのトゥゲル(チベット)


チベットのゾクチェンの「トゥゲル」は、独自のサマタ瞑想でもあり、独自のヴィパッサナー瞑想でもあります。

これは、透明で純粋な意識を自覚した状態で、その無念無想の状態(何もない状態にアンカーしているとも言える)から、心が様々なものを生み出しては、それが自然に消えることを観察します。

心に現れるものは、心の創造の産物であり、「雑念」として否定的に捉えません。

透明な意識の自覚を保っているかぎり、それらに対する執着が生まれず、それらが自然に消滅するかぎり、それは清らかなものであり、カルマを生まないと考えます。

日常においても、この瞑想状態を継続することを目指します。

「雑念」の観察の目的は、上座部のヴィパッサナーでは、執着(煩悩)をなくすためのものであるのに対して、トゥゲルでは、「雑念(心の現れ)」が現れても執着が現れない状態を持続するためのものなのです。

「雑念」に気づく目的は、只管打坐では、「雑念」がない仏の状態を現すことであるのに対して、トゥゲルでは、「雑念(心の現れ)」が本来的な清らかな状態のままにするためです。

ですから、仏教の中では、トゥゲルの瞑想法が、最も「あるがまま」を重視する方法でしょう。

ですが、雑念(心の現れ)を意識すると、それが自然に消え去るので、それから価値を引き出すことは、難しいのではないかと思います。


無意識が送る課題


「雑念」と呼ばれるような、意識に自然に現れる心の要素は、さほど意味のないものである場合もあります。

ですが、「雑念」と呼ばれるものの中には、無意識が目的を持って意識に送るものもあります。
その目的は、意識に何らかの変化や解決を促すことです。

例えば、抑圧されたものを解放するためであるとか、変わりつつある自分を受け入れさせるためであるとか、解決しなければいけない問題やその解決法を知らせるものであったりします。

特に、瞑想のような、眼の前の具体的な仕事から離れている時には、無意識が意識に送る課題が自然に浮かんで来ます。

瞑想をしているからといって、この課題を果たすチャンスを捨てるのは、もったいないことではないでしょうか。
いや、課題を果たしてから、本来の瞑想をするべきと言うべきでしょうか。


心理療法からのヒント


「雑念」に向き合って創造的に対処するためには、いくつかのラディカルな心理療法をヒントにすることができると思います。

具体的には、フォーカシング指向心理療法やプロセス指向心理療法の「ドリーム・ワーク(夢見の術)」の思想と技法、ゲシュタルト療法の「完了」に関わる思想と技法です。


夢の主要な機能は、抑圧されたものや、新しく生まれたものを、意識に受け入れさせるために、象徴的な物語を体験させることです。
イメージや物語を体験し、実感するだけで、意識、人格が変わります。

夜に見る夢だけではなく、覚醒時に感じる漠然としたフィーリングや、フッと心によぎるもの、見て妙に気になるものなども、夢の表現と同様の、無意識からのメッセージです。
無意識はいつも、夢に類する形で、合図を送っているのです。

ですから、想像力を使って、それと対話したり、物語を展開したりして体験することによって、意識を変えることができます。


また、ゲシュタルト療法では、何らかの理由によって、「未完了(未解決)」な状態のままに置かれた心の要素は、「完了(解決)」を求めて意識に現れると考えます。

その現れたものに対しては、現れたその時その場で、それと向き合って、「完了」すべきなのです。

ただ、ゲシュタルト療法が「未完了」なものとして、主に重視するのは、過去の体験に基づき、感情の表出が十分でなかったものです。
ですが、「未完了」なものは、これに限らず、もっと幅広く考えることができます。

フォーカシング指向心理療法やプロセス指向心理療法が、意識化しようとするものも、「未完了」なものだと思います。
「ドリーム・ワーク」の対象も含めて。
フォーカシング指向心理療法はそれを「含まれたもの」、プロセス指向療法では「二次プロセス」などと表現しますが。


意識に現れる「未完了」なものとは、具体的には、例えば、受け入れがたい出来事とそれに対する自分の感情であったりします。

これらについては、その感情に関わる連想を働かせながら、自覚的に感情を実感するようにします。
時間はかかり、何度も繰り返す必要があるかもしれませんが、徐々に、その感情や出来事を受け入れて、「完了」することができます。


あるいは、「未完了」な課題とは、現在、巻き込まれている、社会的、家族的な問題、それに対する不安な感情かもしれません。

これらにつては、思考して問題解決する必要がありますが、瞑想で行うように、思考を自覚することで、それを創造的にすることができます。
これについては、後で書きます。


雑念を創造にする瞑想法


先に書いたように、「雑念」に気づいて、すぐにそれを消滅させしまうと、「雑念」からは何も生み出すことはできません。

他方で、「雑念」から始まる連想や思考に対して自覚を失ってしまうと、習慣的な思考に入り込んでしまうので、「雑念」からの恵みはあまり期待できません。

「雑念」から創造を引き出すには、どちらでもない方法で瞑想をする必要があります。
これは、「トゥゲル」や「チャルーン・サティ」のような「雑念」に対して肯定的な自覚的瞑想法に、夢見の術や、セルフ・カウンセリング、創造的思考をつなげることです。


「雑念から創造を引き出す瞑想法」を、「トゥゲル」をベースに考えましょう。

まずは、座って行います。
後には、歩行しながらも行うのが良いでしょう。

何も意図せずに、意識に現れたものを観察します。
アンカーは設置しない方が良いでしょう。

「トゥゲル」の場合は、「雑念」に対しては、関心/無関心、肯定/否定のうえで中立的な姿勢で向き合います。
ですが、この姿勢の場合、自覚の働きが強いと、連想を抑止して、「雑念」を消滅させてしまいます。

ですから、自覚の働きを少し弱めると共に、「雑念」に対する関心を少し高める必要があります。


瞑想の調子の良い時は、心に何かが現れた(「雑念」が立ち上がった)時点で気づくので、それが習慣的な連想、思考に入り込むことを避けれます。

この時に、現れたものをすぐに消滅させずに、一定時間は保持して、実感し、自由な連想を試します。

連想や思考が起こらなかったり、起こってもそれに意味を感じなかったりすれば、そこで止めます。
ですが、意味がありそうであれば、連想や思考を、自然に継続させます。

その時、それが夢見につながるものなのか、事件や感情の受容につながるものなのか、問題解決の思考につながるものなのか、などの方向性を見極めながら進めます。


一方、調子の悪い時は、「雑念」が習慣的な連想や思考に入り込んでしまっていたことに、後から気づきます。
この時は、そのテーマに立ち戻って、ゼロから発想を習慣の外へと開いて、自由な連想や思考を試し直します。

連想や思考が、円環的に閉じないように、直線的、連続的に進まないようにして、創造的にします。


ただ、どちらも場合も、行き詰まったと感じると、そこで終えます。
いつか、準備ができれば、また、同じテーマの「雑念」が、姿を変えて現れますから、その時に、対処すれば良いのです。


日常的、習慣的な思考にべったりの人とか、「雑念」に対して否定的な仏教的な瞑想や思想に慣れている人の場合、無意識が送ってくるものにオープンでいることが難しいかもしれません。
ですが、自我の検閲をなくした受容的な態度を試し、それに慣れるしかりません。


瞑想の日常化


自覚(気づき)を重視する瞑想法は、たいてい、日常で常態化することを目指します。

また、アーノルド・ミンデルは、「夢見の術」を常態化する「24時間の明晰夢」を提唱しています。

「雑念から創造を引き出す瞑想法」も常態化が望まれますので、そのためには、この2つの方法を結びつけます。


自覚的な瞑想は、日常の思考や行動を対象化することで、それを変えることにつながります。
仏教では、執着を持たない方向に変えます。

「夢見の術」も同じで、夢の中に意識を持ち込み、夢を対象化することで、その通常の行動ルールとは異なる行動を行い、異なるストーリーに導くことが可能となります。
「夢見の術」の場合、基本的には、何かを得る方向に変えます。

「雑念から創造を引き出す瞑想法」も同じで、日常の思考や行動を対象化することで、それを変えます。
それは、連想を加えることで、何らかの創造性を得る方向です。

具体的には、常に、行動や思考を自覚的に観察し、それが習慣的、常識的になっていると気づけば、自由に、その外側の発想を呼び込むようにします。


座って行う「雑念から創造を引き出す瞑想法」では、思い浮かんだ「雑念」が、創造のきっかけとなります。

ですが、日常の中では、次々といろんなものを見聞きしたり、行動したりしますので、それらが連想のきっかけになります。

ですから、常に、無意識が送る合図に注意を向けている必要があります。
そして、それを見つけたら、想像力でそれを展開します。

象徴的なイメージや物語が展開する場合は、一種の夢見の術になりますが、これは「24時間の明晰夢」と同じです。
事件や感情の受容を促すものなら、それを実感します。
問題の解決を迫るものなら、創造的に思考します。


*主な参考書

・「坐禅の意味と実際」内山興正(大法輪閣)
・「ヴィパッサナー瞑想 上級編」マハーシ・サヤドー(株式会社サンガ)
・「「気づきの瞑想」を生きる」プラユキ・ナラテボー(佼成出版社)
・Xアカウント:プラユキ・ナラテボー【公式】
・「ゾクチェンの教え」ナムカイ・ノルブ(‎地湧社)
・「フォーカシング指向心理療法(上)」ユージン・T・ジェンドリン(金剛出版)
・「プロセス指向のドリームワーク」アーノルド・ミンデル(春秋社)
・「実践・“受容的な”ゲシュタルト・セラピー」岡田法悦(ナカニシヤ出版)

*タイトル画像は、ゾクチェンの本尊=法身普賢  from wkiipedia


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