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カントールの無限論と数理神学

「神秘主義思想史」に書いた文章を少し編集して転載します。


「無限論」や「集合論」の創始者として知られるゲオルグ・カントールは、現代数学の父です。

彼は、それらを、単に数学であるだけでなく、「神学」であり、「哲学」であると考えていました。

そして、彼は、「集合」を「イデア」であると考え、「無限」を「神」、「無限論」を「神学」であると考えていました。

ですが、「無限」に「大きさ(階層)」の違いを発見した彼の理論は、神秘主義的です。


数学と物理学の神秘主義


自然科学にも神秘主義思想を見つけることができます。

特に、東洋や古代、西洋でもルネサンス期の自然科学は、自然哲学や神学と一体性が高いので、当然そうです。

ですが、近現代においても、神秘主義的なものがあります。

一般に、古代からの数学の神秘主義、数秘術は、ピタゴラス主義のように、数に関する象徴主義です。

ですが、近代以降の純粋数学においては、この象徴主義は否定されました。

また、現代物理学においては、例えば、方程式が何を意味しているのかを問わず、純粋に計算の実用性のみが求められる傾向があります。

純粋数学・物理学のような厳密に理性的・合理的に探求され、あるいは、実験によって実証されるものを、神秘主義的と表現するのはおかしいと思う人もいるでしょう。

ですが、神智学、神秘哲学には、理性や合理、現実を重視するものも多いですし、真理を目指せば、どうしても日常的な合理の限界を超えて神秘主義的にならざるをえないと思います。

それに、現代数学、現代物理は、どんどん日常的な現実や実証から遠ざかっている傾向があります。

もちろん、どんなものを神秘主義的と考えるかは、定義の問題です。

例えば、近代哲学の父と呼ばれるデカルトは、解析幾何学を創造しました。

古代数学が直観を重視する学であったのに対して、デカルト座標をもとにした解析を重視します。

これに時間を組み込んで物体の運動を記述するのがニュートン力学です。

そして、そのような時間、空間の感性的直観形式が先験的だとしたのがカントです。

また、デカルト座標は、実数で構成される3次元空間で成り立っています。

ですから、デカルトは「虚数」を認めず、それを「想像上の数(nombre imaginaire)」と名付けました。

また、4次元以上の高次空間も認めませんでした。

「複素数(実数と虚数で構成される)」は、それ自身、実数次元にプラスして「虚数」次元という高次次元を持っている数だとも言えるので、これは、デカルト的認識では、認められません。

これらデカルト、カント的な枠組みが、近代の合理的な世界観を築きました。

いわば、近代科学における公教、顕教です。

ですから、「虚数」や「高次元空間」を扱う数学は、一種の秘教、神秘主義だと考えることができます。

一般的な世界観識の外側だからです。

この定義で考えれば、現代物理においては、「虚数」を含む波動方程式や、無限次元ヒルベルト空間における作用素論としても定式化されている量子力学、10次元空間を前提とする超弦理論は、神秘主義的です。

量子力学は、「相補性(Aでもあり非Aでもある)」や、「不確定性原理」、確率的存在概念を物理学に持ち込んでいて、これらの点でも神秘主義的です。

さらには、素粒子を真空のエネルギーのゆらぎとしての「場」に還元した「場の量子論」は、ほとんど、「色即是空」の世界です。

そのためか、量子力学の創始者達には、ハイゼンベルグ、ボーア、湯川秀樹のように、タオイズムなどの東洋思想に傾倒していた人が多くいます。

また、「無限」を扱う数学は、神学的であり、その扱い方によって神秘主義的です。

デカルト座標には、無限遠点という形で「無限」が想定されるのですが、当時、「無限」について定式化することは行われませんでした。

それどころか、カントは、「無限」に関して、物自体の世界には存在しても、あるいは、数学的には存在しても、我々の現実の認識世界には存在しないと考えました。

以下、「無限」を数学であると同時に、哲学、神学として考えた、カントールの「無限論」を中心に、「無限論」に関して書きます。 


ギリシャの無限論


ギリシャにおける合理主義的思想は、数的な比率の調和を重視しました。

ピタゴラス教団には、「無理数」という割り切れない数の存在を漏らしたヒッパソスが殺された、という伝説があります(あくまでも伝説です)。

「無理数」は、世界の調和の教説に矛盾するからです。

「有理数」は、離散的で、有限であるのに対して、「無理数」は、連続体であり、「無限(数字では小数点以下が無限に続く形でしか表せない)」を含んでいます。

ギリシャの合理主義思想は、アリストテレスが代表します。

アリストテレスは、2つの無限、「可能無限」と「実無限」を区別しました。

「自然数」を数え続けると、終わりがないことが、「可能無限」、「加算無限」です。

それに対して、「自然数」全体の総数が無限であることが「実無限」です。

アリストテレスは、可能態である「可能無限」は認めましたが、現実態である「実無限」は認めませんでした。

無限を認めると、「部分=全体」という論理矛盾が生じるから、それを否定したのです。

ですが、ピタゴラスもプラトンも、「実無限」に相当する存在を認めていました。

プラトンの不文の教説では、世界は「一/不定の二」の2原理からなります。

ピタゴラス派では、これを「限定/無限」と表現していました。

これらは「形相/質料」に対応するものです。

つまり、「無限」は「質料」に対応し、それは「悪」の原理なのです。

このように、ギリシャにおいては「実無限」は存在を認められなかったり、認められても質料的な「悪」なる存在でした。


西欧の無限論


ところが、ギリシャ教父の時代になって、神を「無限」と考えるようになりました。

キリスト教では、神=「無限」であって、「無限」=神になったのです。

つまり、ギリシャ的な「調和」の思想は、西欧・キリスト教的な「無限(連続体)」の思想へ移行し、「無限」の意味は180度反対になったのです。

「無限」には不思議な性質があります。

例えば、「整数」全体の総数と、「偶数」全体の総数はどちらが大きいでしょうか?

「整数」は「偶数」と「奇数」からなるので、「整数」全体の総数が、「偶数」全体の総数の2倍ありそうに思えます。

ですが、数学的には、どちらも同じ「無限」となります。

つまり、「偶数」全体は「整数」全体の部分であるにも関わらず、同じ大きなのです。

17Cにガリレオは、離散的な「自然数」についてこのことに気づきましたし、19Cにボルツァーノは、連続体の「実数」についてもこれに気づきました。

ですが、両者共に、この考えを進めることはしませんでした。

また、先に書いたように、カントは、我々の世界には「実無限」は存在しないと考えました。

彼は、「部分=全体」となる「実無限」を認めないアリストテレスを継承していると言えます。

「無限」は、「無限小」にも表れます。

「微分」や「無限小」の発明者であるライプニッツは、「虚数」を存在と無の両面を備えた「聖霊」的存在であると考えました。

そして、微分を延長(外延量)に対する内包量とし、実在的なものと考えました。

微分には、アナロジーとして、「出来上がった世界」に対する「それを作る世界」という側面があって、これはベルグソン=ドゥルーズ的な哲学では「潜在性」の世界であり、宗教的には秘教の世界です。


カントールの無限論


この無限についての数学的な探求を、常識を超えて進めたのが、ゲオルク・カントール(1845-1918)です。

彼は「集合論」の創始者であり、「集合論」に基づいて「無限論」を創造しました。

カントールの「無限論」は、当初、多くの数学者から空論として批判されました。

彼の上司だった数学者のレオポルド・クロネッカーは、「自然数だけが神が作り給うた」と主張し、カントールの論文の学術誌への掲載を拒否するなど、彼をイジメました。

ですが、ローマ法王レオ13世が率いる神学者達は、カントールの味方をしました。

レオ13世は、神学と科学の一致を旨とする新トマス主義を掲げていました。

「無限論」は神学であることを、カントールもレオ13世も理解していました。

カントールが証明したのは、まず、無限において「全体と部分は同じ」ということです。

例としては、「自然数」全体の総数と「有理数」全体の総数は同じということです。

彼は、これを、両集合のすべての要素を1対1で対応づける(全単射)ことができるので、同じ大きさであると証明しました。

「自然数」は「有理数」に含まれ、「有理数」は「自然数」と違って、稠密(例えば、0と1の間に無限に存在する)な数なので、その総数が同じであるというのは、大変不思議で、常識的な「直観」に反します。

これは、神学的には、全体としての神と、部分としての神が、どちらも同じ神であるということです。

キリスト教的には「三位一体説」が成り立っても良いことになります。

また、自然界にも無限はあるので、神は自然に内在しても良い、人間として受肉しても良いことになります。

次に、カントールが証明したのは、無限には「大きさ(濃度)」の違う無限が存在すること、そして、無限に大きな(無限に濃度の濃い)無限が存在する、ということです。

例としては、「実数」全体の総数は「有理数」全体の総数より大きいのです。

言い換えると、「連続体」の無限は「非連続体」の無限より大きいということです。

一般化すると、「べき集合」(ある集合のすべての部分集合を要素とする集合)の要素の総数(無限)は、もとの集合の要素の総数(無限)よりも大きいのです。

実際、「実数」は「整数」の「べき集合」になっています。

これは、無限において「部分の総和は全体を超える」ということです。

無限に大きさの違いがあるということは、神に「階層」がある、神に内部構造が認められるということです。

これは神学的には、例えば、ギリシャ正教(パラミズム)の、神の「本質」と「活動(エネルゲイア)」の違いを認める説が成り立っても良いのです。

パラミズムでは、神の「活動」は瞑想によって直観可能だけれど、「本質」は直観不可能なのです。

あるいは、カバラが神の内部構造として10のセフィロートの階層性を認める説が成り立っても良いのです。

この無限に大きさの階層性があることは、神学的というより、神秘主義的です。

次に、カントールは、「実数」の総数(直線上の点の総数に当たる)の無限と、「複素数」の総数(平面上の点の総数に当たる)の無限の大きさの違いを証明しようとしました。

ところが、これに3年間を要し、両者の大きさが同じことを証明してしまいました。

つまり、無限=神においては、「次元」の違いはない、実数と虚数に違いはないのです。

これも、常識的な「直観」に反します。

この証明をした時、カントールは、「見たけれども、信じることができない」と書きました。


カントールの数理哲学


カントールは、「無限論」を構築する中で、神学だけでなく、哲学も意識していました。

実際、彼は、プラトン、アリストテレス、クザーヌス、ブルーノ、カント、ライプニッツ、スピノザらが無限をどう考えていたかを研究しています。

そして、自分の「無限論」の成果を反映した哲学を構想していました。

それは、スピノザ、ライプニッツを基礎として、彼らを乗り越えようとするものでした。

カントールが創造した「集合論」は、数学を基礎づけ、数学を新たな段階に飛躍させるものとなりましたが、彼自身は「集合論」を、数学より包括的な「哲学」であると考えていました。

そして、「集合」を、プラトンの「イデア」や「混合者(ミクトン)」に近いものと考えていました。

彼は、自分が「無限論」の中で創造している諸概念が、プラトン哲学の、「限定(ペラス)」、「無限(ト・アペイロン)」、「混合者」のどれに当たるかも考えていました。

カントールは、自分が数学的に定義した無限が、「実無限」に当たると考えました。

また、それは、スピノザの言う、「形相的無限者」ではなく、「神」である「本来的無限者」であるとも考えました。

また、カントールは、当時の物理学の中にあったエネルギー論と原子論の対立に対して、「物体モナド」と「エーテル・モナド」の2種類の構成最小単位を導入し、それぞれの「濃度」に違いがあるという説を提唱しました。

つまり、物質界とエーテル界の階層の違いを「無限」の「濃度」の違いとして考えたのです。

カントールの「無限論」は、従来の数学とは性質の違うものです。

従来の数学は、「問題」を解決するために発展してきましたが、カントールの数学は、「無限とは何か」を問うことによって、新しい「概念」を創造するものでした。

こうして、抽象的な現代数学が始まったのです。

そして、従来の数学が、「直観」を重視したのに対して、カントールの「無限論」は、通常の「直観」が捉えることができないものであり、「論証」によって認識されるものでした。

カントールは、点や直線、時間は「直観形式」ではなく、概念の「表象」にすぎないと主張しました。

彼は、ギリシャ的な「直観」を否定し、カント的な「直観形式」を否定し、ニュートン的な絶対時間を否定しました。

ところが、カントールは、「論証」の限界に突き当たったのです。


連続体仮説とカントールの精神病


カントールは、「自然数」全体の総数の無限は、一番小さい無限であることを証明しました。

「有理数」全体の総数は、それと同じ大きさです。

では、「実数」全体の総数の無限は、次に大きな無限なのでしょうか?

これを一般化すると、「ある無限集合の濃度と、そのべき集合の濃度の間の濃度は存在しない」となります。

カントールは、「直観的」にそうだと感じていて、それを証明しようとしました。

これは「連続体仮説」と呼ばれます。

これが真であるかどうかは、無限論の体系化の基礎に関わることです。

カントールはこれの証明に注力しましたが、証明に至りませんでした。

先に書いたように、カントールは、無限が神であることを意識しており、彼にとって、「無限論」は神の秘密を説く神学でした。

無限の大きさの違いの問題は、公教的な神学を超えて、神秘主義的神学の問題でしょう。

カントールは「連続体仮説」の証明に失敗しつづける中で、徐々に精神を病んでいきました。

鬱になり、妄想を抱くようになり、発作を起こすようになりました。

そして、とうとう、「連続体仮説」は証明すべきものではなく、神の「啓示」であると考えるようになりました。

カントールが「連続体仮説」を信じたのは、「直観」によるとしか言えません。

ですが、彼は、無限には常識的な「直観」が通じないことを知っていましたので、「啓示」と表現したのでしょう。

これは、「常識的直観」ではなく、「神秘的直観」と言い換えても良いでしょう。


ゲーデルの不完全性定理と精神病


カントールが亡くなった後、「不完全性定理」を証明した天才、クルト・ゲーデルが「連続体仮説」に挑みました。

ただ、彼は、カントールと反対に、「連続体仮説」は間違っていると「直観」していたのですが…

ゲーデルの有名な「不完全性定理」は、証明できない命題(真理)がいくらでも存在する、そして、体系の無矛盾性の証明はできない、といった内容の定理です。

これは、神学的に言えば、完全な神学は存在しえない、ということです。

拡張解釈すれば、全知なる神は存在しない、となります。

ちなみに、ゲーデルは、発表はしませんでしたが、「神の存在証明」を行っています。

で、結果はどうなったかといえば、ゲーデルは「連続体仮説」を証明できませんでした。

ですが、彼の予想とは反対に、それが真実であるとしても無限論の体系と矛盾しないことが証明できました。

そして、なんと、ゲーデルは、カントール同様に、「連続体仮説」に挑む中で、精神を病んでしまいました。

一般に、神秘主義的体験の探求では、精神を病むことは多いのですが、「無限論」に挑むことも、精神を病む原因になるようです。

ですが、その後、ポール・コーエンが、ゲーデルの「不完全性定理」を用いて、「連続体仮説」が、偽であっても体系と矛盾しないことを、つまり、「連続体仮説」は証明できないことを証明しました。

こうして、無限の濃度、つまり、神の内部階層に関する基本的な真理の一つは、証明できず、「直観」する(公理化する)しかないことが証明されたのです。

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