夢見の術:その本質と奥義
私にとって「夢見の術」は、大きなテーマの一つです。
昔、「夢見の技術」というグログ・サイトも作りましたし、このNOTEでも夢見に関するマガジンをまとめています。
ですが、「夢見の術」というのは、一般にほとんど知られていませんし、実践はかなり難しいものなので、試しても諦めてしまう人がほとんどでしょう。
まあ、それは、瞑想でも、魔術でも、なんでも同じなのですが。
そういう私も、「夢見の術」の研究家ではありますが、決して実践家と言うほど、実践をしているわけでもありませんし、優秀な実践家でもありません。
ですが、今回は、改めて、「夢見の術」とは、何であるのかについて、まとめてみようと思います。
かいつまんだ紹介でもあるので、それぞれのパラグラフでは、関連する過去の記事へのリンクも掲載します。
夢見の術とは何か?
「夢見の術」は、夜見る通常の夢と違って、意識を保って見る「明晰夢」の状態で行います。
「白昼夢」も意識がある状態で夢のような想像をしますが、それとは違い、まるで本当に夢の中にいるように夢見ることが望まれます。
瞑想法の一種である「観想」では、意識的にイメージの世界を構成しますが、「夢見の術」では、基本的には、無意識にイメージの世界を構成させます。
無意識に夢を主導させるのですが、完全にそうしたら普通の夜見る夢と変わらなくなります。
逆に、完全に意識が主導して、望む夢を見てしまうと、「白昼夢」や「観想」のようになってしまいます。
そのため、「夢見の術」では、基本的には無意識に主導権を与えながらも、意識が最初にテーマや舞台の設定をし、その後も行為の選択をするなどの関与をして、夢を一定の方向に誘導します。
ですから、RPGゲームと似ているところがあります。
「夢見の術」には、主に2つの方法があります。
一つは、夜に夢を見ている時に、これが夢だと気づいて、意識を保った「明晰夢」に移行して行う方法です。
もう一つは、昼に「白昼夢」を見るようにして始めながら、意識を保ったままに、深い夢見の状態に移行して行う方法です。
どちらも、簡単ではありません。
夜の夢を見ている途中で、これが夢だと気づいても、数秒もすれば、忘れてしまうことが良くあります。
ですが、「明晰夢」が数秒であっても、輝きのレベルが変わり、その体験は強いインパクトをもたらすものになりえます。
「白昼夢」から、現実の自分を忘れるほどに深い夢に入り込むこむことも簡単ではありません。
ですが、浅くても、無意識に主導権を与えて動かせるなら、大きな意味があります。
それぞれの方法には、それなりのコツがあるので、下記の投稿を参照してください。
いずれにせよ、「夢見の術」では、無意識の想像力に主導権を与えてそれを十分に働かせます。
そして、意識がそれを受け入れながらも、意識の関与を完全に手放さないことが重要です。
意識と無意識を互いに開き合い、対話させるのです。
「夢見の術」は、音楽で言えば、「即興演奏」するようなものです。
意識のある状態で演奏しますが、無意識にメロディーを紡がせます。
意識の役割は、大枠から外れないように見守り、よりよい音楽になるように方向修正することです。
何のために夢見をするのか
では、何のために「夢見」をするのでしょうか?
それは、自分の人格を成長させ、開放するためです。
もともと、それが「夢」の主要な機能です。
「夢」は、抑圧されたものや、無意識の中で新しく生まれつつあるものを、意識に受け止めさせるための表現という側面があります。
それを伸ばすのが「夢見の術」です。
現実世界で実現できない欲望を満たすために「夢見」を行うこともできますが、それが結果として人格を成長させたり、開放したりすることにつながらなければ、つまらないことです。
これは、心理学者のユングが、「個性化の過程」と呼んだことと似ています。
宗教が「イニシエーション(秘儀伝授)」と呼んだことにも似ています。
ですから、「夢見」の物語の展開は、しばしば、メルヘンやおとぎ話、神話の物語のようになります。
ですが、必ずしも、宗教性にこだわる必要はなく、もっと日常的な目的のために、「夢見」を行うこともできます。
例えば、日常生活の問題を解決するために、その問題を対象にして「夢見」を行うこともできます。
無意識は答えを知っているのに、意識がそれを遠ざけていることも多いからです。
あるいは、何となく調子が良くない、気分が晴れない時に、それを治すために、それを対象にした「夢見」を行うこともできます。
夢の象徴は、その原因がわからずとも、治してしまう力を持っているからです。
あるいは、過去の出来事で感情的にひっかかっていることに、決着をつけるために、その体験を対象にした「夢見」を行うこともできます。
決着は、自分の心だけが行うことができるものだからです。
夢には障壁があり、終わりがある
一つの夢には、それ以上先がない、という「終わり」があります。
夢が何らかのメッセージを、意識に伝え、受け入れさせるものだとしたら、それが終わった時点で、「終わり」になるからです。
「終わり」は、合理的に判断できるものではなく、「終わった」と感じるかどうかで分かります。
たいていの夢は、「終わり」まで行かずに、一旦、終わります。
夢には、越えがたい「障壁」があり、「終わり」まで行けないことが多いのです。
その「障壁」は、人格を構成する抑圧が関係しています。
意識は、現在のアイデンティティを保とうとし、変わることに抵抗します。
無意識は夢を「終わり」まで見せたいのですが、意識はそれを拒否し、夢をゆがめるのです。
ですから、「夢見の術」では、夜見た夢の続きを見て、それを「終わり」まで展開するが目標となります。
これが「夢見の術」の本質なのです。
夢が「終わり」まで展開するというのは、必ずしも、決まったストーリーがあって、それを最後まで見る、ということではありません。
それよりむしろ、一つの夢のメッセージが、一定の期間を経て、その内容、ストーリーが変化し続け、「最終ヴァージョン」の物語に至ることなのです。
それは、作家が、小説を何度も練り直し、完成させることに似ているかもしれません。
例えば、無意識が意識に受容させようとしているものは、最初は、気持ち悪い怪物のようなものとして登場し、あなたと敵対します。
意識の「障壁」がそう見せるのです。
ところが、意識がそれを徐々に受容し、変化するに従って、それは魅力を感じる人物などに変化していき、あなたと友好的な関係になります。
そして、気づきを与える言葉を掛けたり、何か魅力的な品をくれたりするかもしれません。
一つの夢が「終わる」とは、こういう変化であり、一つの意識の変化の「終わり」なのです。
ですから、「終わり」を感じない印象的な夢を見たら、その続きの「夢見」を行い、それを「終わり」まで展開すべきなのです。
夢の中には「障壁」に関わる存在や、選択の場面が登場するので、それに気づき、行動の選択を変え、メッセージを受容することで、その「障壁」を越えるのです。
それが「夢見の術」における意識の役割です。
ですが、「障壁」があまりに強ければ、「夢見」は進みません。
それは、トラウマのような体験であったり、強いコンプレックス、人格の根本に関わる執着であったりします。
こういった場合には、「夢見」の意識状態の中で、「記憶の書き換え」、「自己イメージの書き換え」をすると効果的です。
これは、意識が、夢(無意識)に強制的に介入する方法です。
ですから、「夢見の術」というより、自己暗示的なイメージ療法、あるいは、魔術と表現すべき方法です。
これらについては、今回は書きません。
心理療法の夢見の拡張
心理療法には「ドリームワーク」と総称されるような「夢見の術」の拡張があります。
これは、一般には、必ずしも深い「夢見」の意識状態に入る必要はなく、「白昼夢」に近い意識レベルでも構いません。
「フォーカシング」という技法は、その時に感じている、漠然とした雰囲気やフィーリング、気分、身体感覚を対象にして「夢見」をします。
こういった漠然として感覚は、夜に見る夢と同じく、昼に見ている夢の一種であり、無意識の表現だからです。
「プロセス志向心理療法」では、一瞬、ふっとよぎるものを「フラート」と呼び、「夢見」の対象にします。
これも、昼に見る夢の表現の一種なのです。
あるいは、眼にしたものの中で、何か気を引くものを「ドリームドア」と呼び、「夢見」の対象にします。
これは、夢への入口なのです。
あるいは、何らかの病気の症状や、依存症を対象にすることもあります。
「病は気から」というように、身体症状には心が原因であることが多いのです。
この場合、症状や嗜好物は、夢の表現の一種でなのです。
こういった症状を対象にした「夢見」によって、その夢を「終わらせる」ことで、病気が治ることもあるのです。
現実を対象にした夢見
現実を対象にして「夢見」をし、無意識が知っている、現実の背後にあるものを見つけることもできます。
現実生活というのは、意識だけではなく無意識でできています。
つまり、人間関係の様々な行動の中には、その人が気づいていない無意識の表現が溢れています。
人間関係は、意識的なコミュニケーションだけではなく、無意識同士のコミュニケーションによってできています。
時には、両者がまったく反対の内容を伝えていることもあります。
人間関係の中の無意識のコミュニケーション、行動も、夢の一種なのです。
ですから、なんとなく気になる現実の場面や人物を対象にして、「夢見」をし、その夢を展開することで、隠れた意味が分かることがあります。
あるいは、その意味が理解できなくても、「夢見」を展開するだけで、相手との関係が変わっていくこともありまし、「終わり」まで展開することで、目標を見出すこともできます。
夢の地理
その人の夢には、決まった「夢の地理」があります。
夜見る夢には、よく舞台となる場所があるはずです。
夢を見ている時に、また、ここか、と、思ったりします。
それは、現実に存在する場所であることも、そうでないこともあります。
子供の頃から長く住んだ家や、その周りは、重要な「夢の地理」の中心です。
こういった場所は、現実に存在する世界であるだけではなく、心の構造が投影された象徴的な場所になるのです。
私の場合、子供の頃に長く住んだ家がありました。
夢の中では、庭に生えている樹は、現実の樹よりはるかに大きく、その樹をどんどん登っていくことができました。
また、現実の家は二階建てでしたが、夢の中の家は、屋根から、ないはずのさらに上階に登っていくことができました。
怪物や悪者が家に襲ってきた時は、いつもこの屋根から上層へ逃げました。
現実の庭には地下がありませんでしたが、夢の庭には、地下室がありました。
また、庭の池には、見たこともないような大きな魚が泳いでいました。
この家は、大人になってから引っ越しをしたのですが、今でも、忘れ物を探してこの家に戻る夢を見ます。
時には、探し物をしている最中に、家が倒壊したり、焼失することもあります。
家に戻ってみると、寺院に建て変わっていたこともありました。
伝統的な世界像の多くには、天上、地上、地下の三世界があります。
その中心には巨大な世界樹が生え、枝は天上にまで伸び、根は地下に伸びています。
シャーマンは、この樹を伝って天上に登り、根元にある穴から地下世界に行きます。
あるいは、地上にある特別な「自分の庭」を出発地にして、舟に乗って遠方の島に行くこともあります。
シャーマンは、その目的によって、それぞれの場所を訪れるのです。
こういった世界像は、人間の心の構造が投影されているので、かなり普遍性が高く、誰の「夢の地理」にも似たところがあるはずです。
ですから、「夢見」の目的によって、自分の「夢の地理」の中で、行く場所を選ぶことができます。
シャーマニズムの夢見の術
シャーマニズムやネオ・シャーマニズムでは、「夢見の術」を多用します。
シャーマンがトランス状態になって異界を訪問することは、一種の「夢見の術」であり、これがシャーマニズムの本質だと言ってもよいでしょう。
例えば、シャーマンは、神や、「指導霊(ティーチング・スピリット)」から、予言や助言を受けるために、「天上世界」を訪れます。
また、「先輩シャーマン」から助言を受けるために、「遠方の島」を訪れることもあります。
「パワー・アニマル」を見つけるためには、「地下世界」を訪れます。
「パワー・アニマル」というのは、ある期間、その人を動かしている力の源となるものの表現です。
現代人の子どもにとっては、ポケモンも「パワー・アニマル」の一種かもしれません。
女性にとっては、癒やしキャラも、その一種かもしれません。
詳しくは、下記をお読みください。
また、アルベルト・ヴィロルドによれば、南米のシャーマンは、「地下世界」に、いくつもの特別な部屋(場所)を持ち、目的に応じて、そこに訪れて問題を解決することがあります。
「原初のエデン」、「傷の部屋」、「契約の部屋」、「恵みの部屋」、「宝物の部屋」などです。
詳しくは、下記をお読みください。
ティキの庭園(自分の庭)
シャーマンは、「夢見」の中で、特別な自分専用の「庭」を持っていることがあります。
サージ・カヒリ・キングが紹介するハワイのシャーマニズムでは、この庭を「ティキの庭園」と呼びます。
この庭は、シャーマンが異界を訪れる時、必ず出発点とする場所であることもあります。
多くの場合、この庭は、自分の住居から遠くない地上の場所にあります。
この庭の本質は、自分の人格や無意識の状態をリアルタイムで表現する場所であることです。
ですから、自分の心に何か問題があれば、庭の特定の場所の花が枯れているかもしれません。
ですが、便利なことに、この庭の枯れている花に水をやれば、心の問題が解決してしまうことがあるのです。
象徴とは、それが何であるのかを理解せずとも、それを操作することで、心を変える力を持つのです。
つまり、「監視盤(鏡)」であり、「操作盤(スイッチ)」なのです。
ですから、シャーマンは、定期的にこの庭を訪れ、手入れをします。
何度も訪れて、手入れすることで、「自分の庭」として機能するようになります。
地下世界で見つけた「パワー・アニマル」を、この庭に住まわせることもあります。
また、何か問題があった場合、天上世界から「指導霊」を呼んだり、その問題に関わる「援助者」を呼んで、アドバイスをもらうこともできます。
夢見の術の奥義
「瞑想」に奥義があるように、「夢見の術」にも奥義があります。
ゾクチェンや禅における瞑想の奥義とは、瞑想と日常の一体化であり、瞑想の常態化です。
それは、常時、自身の心の動き、行為に対して自覚を持ち、執着が起こらないようにし続けることです。
あるいは、それによって心を習慣に囚われない創造的な状態に保つことです。
同様に、「夢見の術」の奥義は、「夢見」と日常の一体化であり、「夢見」の常態化です。
プロセス指向心理学では、これを「24時間の明晰夢」と表現しています。
これは、常時、自身の「夢」の表現である心身の微妙は動きに自覚を持ち、それを展開させ、「終わり」に導き続けることです。
そうしないと、「夢」は無意識に潜ってしまうからです。
覚醒時の「夢」の表現とは、先に書いたように、無意識的なイメージの働きであり、あるいは、雰囲気やフィーリングとして感じられるものであり、無意識的な仕草などです。
同時に、覚醒時だけではなく、夜の夢についても、常にそれを意識化して「明晰夢」にします。
また、覚醒時には、「夢」の表現だけではなく、その形になったイメージを生み出すもとになる、「種」のような次元、つまり、「意味の種」、「夢の種」を意識して直観することも行います。
そして、この「夢の種」からイメージを生み出し、物語にし、「夢」を展開します。
この「夢の種」の次元を意識することに熟達すれば、最終的には、夜の夢のない眠りの状態にまで意識を持ち込むことができるそうです。
「明晰夢」ならぬ、「明晰睡眠」です。
この「夢見の術」の奥義は、瞑想の奥義と重なり、最終的にはほとんど一致します。
どちらも、常に、心身の動きの全体を意識し、それを創造的に解放し、展開させるものだからです。
*この投稿では、心理療法のドリームワーク、シャーマンのトランスなどを含めて、「夢見の術」とその本質を、半ば体系的に語りましたが、その内容の多くは私見によるものです。
ただ、プロセス指向心理学のアーノルド・ミンデルの考え方は近く、私もその影響を受けています。