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仏教最奥義のゾクチェン

「神秘主義思想史」に書いた文章を転載します。


「ゾクチェン」は、7C頃に、中央アジア~西北インド~西チベット辺りに存在したシャンシュン王国のウッディヤナで生まれたと考えられる思想です。

シャンシュン王国は、キュンルンを都として、北はコータン、東はギルギット、南はムスタン、東はナムチョに至る国で、ウッディヤナは、今のパキスタンのスワット渓谷と考えられています。

初期の経典は、今は伝わっていないこの国の言語で書かれています。

「ゾクチェン」はチベット語ですが、サンスクリット語は「マハー・サンティ」で、漢訳は「大円満乗」、「究竟乗」です。

シャンシュン王国のあった中央アジアは、文明の十字路です。
この地は、中世には、西からはゾロアスター教、マニ教などのイラン系宗教とイスラム教が、南からはシヴァ教や仏教が、東・北からはトルコのシャーマニズム、中国禅などの影響を受けました。

そして、この宗教の坩堝の中から、様々な新しい宗教思想を生み出しました。

「ゾクチェン」は、ガラップ・ドルジェ(サンスクリット名は「プラハルシャ・ヴァジュラ」、もしくは、「プラへーヴァジュラ」)が開祖とされています。
ですが、彼は伝説的な存在であり、実際の開祖は、マンジュシュリー・ミトラの可能性が強いようです。

「ゾクチェン」は、チベット仏教ニンマ派とボン教で、最奥義として伝えられており、ゲルグ派のダライ・ラマも重視しています。

この思想は、仏教に属するという見方もできますが、仏教とは異なる独自の思想であるとの見方もできます。
普遍性が高く、その基礎概念は、仏教の基礎概念と共通する部分と、相違する部分があります。

「ゾクチェン」は、「マハー・ムドラー」と同様に、近年までその存在がほとんど知られていませんでした。

しかし、中国のチベット侵略後に亡命したチベット僧、例えば、アメリカに亡命したタータン・トゥルク、イタリアに亡命したナムカイ・ノルブなどの活動によって知られるようになりました。

日本にはネパールで伝授を受けた中沢新一によって伝えられました。
その後は、牧野宗永、新井サンポ、箱寺孝彦(ボン教ゾクチェン)らも、ぞれぞれに伝えています。


ゾクチェンの思想


「ゾクチェン」の思想の本質は、まず、仏教が「仏性(自性清浄心)」と表現した心の基盤は、本来的に清浄である、ということです。

この心の基盤を、「原初の境地」、「心の本性」、「リクパ(明知)」、「菩提心」などと表現し、これが「初めから清らか」であるとします。

そして、この心の基盤は、智慧や気づきを持っていて、そのため「リクパ(明知)」と表現します。

また、この心の基盤は、常に、汚れることも、隠れることもなく存在していますが、ただ、人にはその自覚がないだけである、と考えます。

そして、その気づきを自覚した状態を「三昧」と呼びます。

ゾクチェンは「原初のヨガ(ウッディヤナ語で、「アティ・ヨガ」)とも呼ばれます。

次に、この「心の本性」は、様々な心を縁によって生み出します。

その現れる心は、たとえ煩悩によって生まれた汚れたものとして現れても、気づきの自覚を持っていれば、すぐにあるがままで清浄なものになる、と説きます。

これを、「自然成就(自己解脱、任運成就)」と言い、「あるがままで完璧」と表現します。

そして、顕教が「放棄の道」、密教が「変容の道」であるのに対して、ゾクチェンは「自己解脱の道」であると考えます。

それゆえに、「無努力」の教えと言われます。

これは、煩悩があっても、煩悩の結果が現れないようにすることができるということです。

そのため、インドのカルマの思想を超えた、そして、「因果の法を超越した」革命的な思想だと言われます。

ゾクチェンでは、心の現れを、「戯れ」とも表現します。

世界創造をシヴァ神の「戯れ」と表現するカシミール・シヴァ派の影響があるかもしれませんが、ゾクチェンは無神論的です。

ゾクチェンは、この気づきの自覚がある清浄な心の状態に、常に留まることを目指します。

その結果、最終的に得られる身体は、仏の三身に「虹の身体」がプラスされます。

「虹の身体」は、カルマのない、根源的な元素のエレメントである光の次元の身体で、「報身」よりも活動的で、他者と直接的に接触して救済することができる存在です。


ゾクチェンの歴史


ゾクチェンの相承の系譜の最初の3人は、

 原初仏サマンタバトラ(チベット語で「クンツサンポ」)
 → 金剛薩埵
 → ガラップ・ドルジェ

です。

サマンタバトラは、青い肌の裸の姿で、坐った合体尊の形で描かれます。

ガラップ・ドルジェは、最初の生身の人間で、処女懐胎でウッディヤナに生まれたとされています。

ですが、この3人は、法身→報身→变化身の象徴であり、ガラップ・ドルジェは実在しない人物と考えられています。

その後の系譜は

 マジュシュリーミトラ → シュリー・センハ

です。

マンジュシュリー・ミトラは、7C頃セイロン生まれで、彼が実在するゾクチェンの開祖と考えられていて、「石を精錬した金」を著しました。

次のシュリー・センハは、中国系で、「リクパのカッコウ」、「偉大な匠」、「金翅鳥」、「沈むことのない勝利の幟」を著したと考えられています。

ゾクチェンの思想は、禅に似ていて「菩提心」の概念を重視する「セムデ(心部)」、後期密教の影響を受けた「ロンデ(界部)」、心の現れをより重視して光として体験する「メンガキデ(秘訣部)」という3種類の体系、3段階で発展してきました。
「メンガキデ」の奥義段階は「ニンティク(心滴)」と呼ばれます。

マンジュシュリー・ミトラは、この3部の分類をしたとされますが、彼の思想の中心は「セムデ」であり、シュリー・センハの思想の中心は「ロンデ」であると見られています。

その後、8C頃に、インド人のヴィマナミトラと、ウッディヤナ人のパドマサンバヴァによって、「ニンティク」がチベットに伝えられ、中央チベットで発展しました。

同時に、チベット人のヴァイローチャナによって、「セムデ」、「ロンデ」が伝えられ、東チベットで発展しました。

パドマサンバヴァの「ニンティク」には、グノーシス主義のバシレイデス派の影響があると言う学者もいます。

また、彼の弟子のゾクチェンの相承者の系譜には、無住の保唐宗などの中国禅の相承者の系譜に重なる師もいました。

その後、14C頃に、チベットのロンチェン・ラプジャン(ロンチェンパ)によって、様々な流れが統合され、体系化されました。

彼の主著である「四部からなるニンティク(ニンティク・ヤン・ラー・シ)」は、別々に伝えられ、あるいは、創造されてきた4種の「ニンティク」をまとめ、さらに、彼自身が創造した「カンドゥ・ヤンティク」を加えて説いています。


ゾクチェンの神智学


ゾクチェンの思想については、上に簡潔に述べました。

ここでは、神智学的側面を書きます。

ゾクチェンは、意識と存在の基盤である「心の本性」、仏教用語で言えば「法界」を、次の3段階で考えます。

・本体:空    :何も存在しない未発の母体の状態(静的次元)
・自性:光明   :存在を創造する力(核的次元)
・慈悲:エネルギー:存在が生まれ続いている状態(動的次元)

この3つ「本体/自性/慈悲」は、「青空/太陽/太陽光」とか、「鏡/鏡の反射力/鏡に映る映像」と比喩されます。

そして、それぞれは、「初めから清らか」、「あるがままで完璧」、「無碍・遍満」と表現されます。

根源存在を、ヒンドゥー・タントラでは「シヴァ/シャクティ」、密教では「智慧(仏母)/方便(仏)」の2元論で考えますが、ゾクチェンの3元論です。

ゾクチェンの「空」の見解は、鏡のような「心の本性」の「本体」が、縁によって、心を現し続ける、というものです。

現れは、あくまでも、目の前に何かが現れてそれが目に映るといった、副次的な要因によって生まれます。

これは、中観派から後期密教、マハー・ムドラーに至る「空」の見解とは異なります。

途絶えなく遍満して現れる「慈悲」の「エネルギー」のあり方は、「イェシェ(原初の智慧)」とも呼ばれます。

ゾクチェンは、心身の止滅を目的とせず、自然な創造を肯定するので、インド・仏教的思想としては、現世肯定的側面が強いのが特長です。

心の現れの「エネルギー」は、3つのあり方で現れます。

・ダン :無形な、音、光、光線としての現れ
・ロルパ:内的なイメージとしての、元素のエッセンスとしての光の現れ
・ツェル:外部に投影された主客2元的な、煩悩性の現れ

です。

「ツァル」の現れは、煩悩によって生まれたものなので、「リクパ(明知)」をもって体験することで、それを解放する必要があります。


ゾクチェンの瞑想法


先に書いたように、ゾクチェンでは「リクパ(明知)」の自覚を保った状態を「三昧」と呼びますが、ゾクチェンの修行は、次の4段階で構成されます。

  1.  三昧に入る

  2.  三昧に対して疑いをなくす

  3.  三昧を持続する(テクチュー=突破する)

  4.  三昧を深める(トゥゲル、トゥカル=跳躍する)

「三昧の疑いをなくす」というのは、気づきを増して、体験をよりはっきりと理解するというものです。

「三昧を維持する」というのは、単に時間的に維持するのではなく、あらゆる体験においても気づきを保つことで、「三昧に体験を統合する」と表現されます。

つまり、思考が生まれても、同じ気づきのある状態を維持するのです。

「三昧を深める」というのは、カルマなしに自然に現れるエネルギー、根源的な元素のエレメントである光の次元に意識と体を転移するというものです。

分析的で、禅に近い止観を行う「セムデ」は、1から始め3に至ります。

ハタ・ヨガ・後期密教的で、象徴を重視する「ロンデ」は、2から始めて4に至ります。

直接的な伝授(直指)を行う「メンガキデ」は、3から始めて4に至ります。

「セムデ」では、心を対象にしたシンプルな「止観」の方法で、現れのない心、心の現れを観察しながら、気づきを維持します。

そして、様々な行動をたり、様々な言葉を話したり、様々に思考をしながら、それを維持できるようにします。

「ロンデ」では、後期密教の究竟次第を行いながら、気づきを維持できるようにします。

「メンガキデ」では、三昧を持続する瞑想は「テクチュー」と呼ばれます。

様々な姿勢、様々な視線、様々な体験をしながら、気づきを維持できるようにします。

三昧を深める瞑想は、「トゥゲル」と呼ばれ、「虹の身体」を得ることを目指します。

ハタ・ヨガのような、特殊な体位、呼吸、視線、気の操作などを駆使します。

青空や、太陽の近くや、何もない空間を凝視したり、何日も暗闇の部屋に籠って暗闇を凝視したりして、瞑想を行います。

そして、視覚神経と胸や眉間のチャクラを結ぶ脈管などを刺激して、光の微粒子を放出して、光の顕現の4段階を順次体験していきます。

光の顕現の4段階は、「法性の顕現」→「顕現の増大」→「顕現の完成」→「顕現の消滅」と呼ばれます。

この光の顕現は、「心の本性」と呼ばれる母体からの、カルマが完全になくなった現れであるとされます。

そして、日常的な心の様々な顕現を、その光の顕現一体化することで、心の様々な顕現をより完全に開放したものにします。



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