聖婚、聖娼、性瑜伽
古代から中世にかけて、世界各地で、「性」と「聖性」は不可分なものとして存在していました。
これを分離したのは、ユダヤ、キリスト、イスラム教による抑圧と、近代合理主義・啓蒙主義による世俗化の結果でしょう。
本投稿では、このテーマに関して、古代オリエント・ギリシャの「聖婚儀礼」と「聖娼」の制度、そして、キリスト教グノーシス主義の「聖婚の秘儀」、中世インドの「性瑜伽(性ヨガ)」、中世日本の「歩き巫女」と「稚児灌頂」などについて簡単に紹介します。
古代メソポタミアの聖婚儀礼
伝統的な宗教には、世界的に、「聖婚(神婚、ヒエロス・ガモス)」という観念があります。
それは、男神と女神の性行為によって、自然の豊穣が生み出されるとする観念です。
最も典型的なのは、農業文化におけるもので、天の男神(太陽神や嵐神など)と地の女神(地母神、穀物女神、田畑の女神など)の「聖婚」です。
この場合、太陽光や雨、稲妻などが、男根や精子の比喩とされたり、洞窟が子宮の比喩とされたりします。
ただ、この背景にも、狩猟文化時代の、大母神(動物の女主)とその息子神(動物神、狩猟神)との「聖婚」があります。
メソポタミアの神殿では、神像を祭っていましたが、神像が神そのもので、あたかも神殿で人間のように生活しているかのように扱っていました。
神像が他の神殿を訪問することもよくありました。
ですから、「聖婚儀礼」は、男神の神像と女神の神像を、寝台に寝かせては、起こして園に移動させて食事をさせる、ということを、何日もの間、繰り返す形で行いました。
具体的には、ウルクの天神アヌと妃のアントゥ、バビロンの主神マルドゥクと妃のザルパニートゥ、その息子のナブー神と妃のタシュメートゥなどです。
オリエントでは、やがて、神同士の「聖婚」の観念は、女神の化身としての女性司祭と、男神の化身、あるいは、息子としての王の「聖婚儀礼」という形を生みました。
おそらく、実際に性行為を行ったのでしょう。
王はこの「聖婚儀礼」によって、女性司祭から女神の聖なる力を得て、即位し、国の豊穣が保証するのです。
具体的には、例えば、ウルにおけるドゥムジとしての王とイナンナの女性司祭や、同様に、バビロンのマルドゥクとサルパニートゥ、タンムズとイシュタルなどです。
王と女性司祭の「聖婚儀礼」が行われた後、民衆が乱交を行うこともありました。
これも、「聖婚儀礼」の一種でしょう。
このように、古代人は、「性」を、全自然の創造に関わるような宗教的観念と結びつけて考えていました。
そして、「聖婚儀礼」は、「性」をそのようなものとして再認識し、そのようなものたらしめるためのものでした。
このことは、次の「聖娼」の制度についても同じです。
古代オリエント・ギリシャの神殿聖娼
古代オリエント・ギリシャの多くの地域では、女神(主に、豊穣と愛の属性を持つ女神)の神殿には、神殿に属する神殿娼婦である「聖娼」がいました。
基本的に異邦人、旅人である男性は、「聖娼」との性行為を、一種の「聖婚」や「イニシエーション」として行い、女神の力を得ることができました。
「聖娼」には、一生を未婚のままに神殿で暮らす者もいれば、一度だけしか行わない者もいました。
地域の女性は、「聖娼」をへることで、大人の女性になるという制度も存在しました。
つまり、「聖娼」は女性にとっても、成人の「イニシエーション」だったのです。
バビロニアのイシュタル神殿や、シリアのアスタルテ神殿、キプロス、パレスチナなどで、こういった制度が確認されています。
エリュクスとコリントスのアフロディテ神殿には、1000人以上、コマナスには600人以上の「聖娼」が住んでいました。
彼女たちは、世俗の娼婦とはまったく異なる地位を保証されていました。
ハムラビ法典にも、そのような権利が書かれています。
当時の社会は男性優位の社会でしたが、「聖娼」は男性同様の地位、財産権を保証されていました。
それに対して、世俗の娼婦は差別の対象であり、神殿に入ることは許されず、生活もままなりませんでした。
古代・中世日本の聖婚と歩き巫女
古代から中世にかけての日本にも、上記したような、オリエント・ギリシャと同様の宗教的観念、制度がありました。
日本における「聖婚」の中心は、男神とそれを祀る巫女との間で考えられました。
例えば、記紀は、三輪の巫女の倭迹々日百襲姫命を大物主の妻として描いています。
八岐の大蛇と稲田姫の関係も同様です。
高天原の斎服殿で、梭で女陰を衝いて(性交の比喩)死んだ稚日女尊も、本来は男性の日神の妻としての巫女だったのでしょう。
日本では、神は山に降り、川を蛇の姿で下って、川に身をくぐさせた巫女と交わるという宗教観がありました。
古事記には、仁徳天皇が新嘗祭の翌日に、「豊の遊び」をしたことが記されています。
これは、王として行う豊穣のための「聖婚儀礼」です。
天皇の身の回りの世話をする女官として、地方豪族出身の采女がいました。
彼女たちは、地方の巫女の代表、あるいは、女神の化身としての「聖娼」的存在でもありました。
近代頃に至るまで、各地の神社の祭りの夜に、未婚者、既婚者を問わず、乱交を行う習慣がありました。
これは、神事として行われた「聖婚」儀礼でしょう。
また、西日本には、成人になるための「聖婚儀礼」を行う「寝宿」というものがありました。
ここでは、初夜の相手を、男神、女神の化身が行うのです。
「遊女」の「遊」とは、「神遊び」のことです。
具体的には神楽のような歌舞を意味しますが、「神の出遊」、「御阿礼(ミアレ)」のことであり、巫女の神憑りによって神が出現することです。
ですから、「遊女(あそびめ)」という存在は、本来は、巫女でした。
神事としての歌舞には、性的な要素、「聖婚」の要素がありました。
「万葉集」には、「遊行女婦(うかれめ)」が歌った歌が掲載されています。
彼女たちは一所に定住する「聖娼」的な存在だと思われますが、当時、彼女たちが、学と地位を持っていた存在であることが分かります。
中世日本には、「歩き巫女」、「白拍子」、「傀儡女」といった、巫女であり、遊女であり、旅芸人でもある者がいて、全国を遊行しました。
オリエントの「聖娼」や「万葉集」の「遊行女婦」が定住するのに対して、彼女たちは移動するという違いがあります。
彼女たちは、来訪神(マレビト)の化身としての「聖娼」だったと言えるでしょう。
「梁塵秘抄」には、彼女たちの男性客を神に見立てる表現があるので、客もまた聖なる存在となりました。
マグダラのマリアと聖婚の秘儀
オリエント・ギリシャの「聖娼」は、男性に「塗油」をします。
これには、宗教的意味合いもあったと思われます。
新訳の正典福音書では、ベタニアのマリアがイエスに「頭に注油」したり、「足に塗油」したりします。
男性の弟子達はこれらの行為の意味を理解できませんが、イエスはこれが「埋葬の準備」の行為であると述べます。
ユダヤ語の「メシア」とギリシャ語の「キリスト」は、「注油(塗油)された者」という意味です。
注油する者は、一介の女性ではなく、注油される者と同等かそれ以上の存在のハズです。
正典福音書では、マグダラのマリアら数人の女性だけが、イエスの十字架上の死と埋葬に立ち会い、彼女は復活したイエスを最初に目撃します。
この「塗油」、イエスの「死と復活」、その見守りは、一連の意味を持っているのでしょう。
マグダラとベタニアのマリアは、女性司祭として、イエスのイニシエーションを司っているかのようです。
つまり、エジプト宗教における、オシリスに対する女神イシスに相当するような存在です。
正典の福音書には、そのような観念があるのです。
グノーシス主義系の初期の異端の秘教的なキリスト教の一派は、「聖婚」の秘儀を行っていたようです。
正典からは外されていますが、グノーシス主義系の『トマス福音書』ではサロメが、『フィリポ福音書』や『マリア福音書』ではマグダラのマリアが、イエスの性的パートナーであるとほのめかされています。
そして、「花嫁の部屋」と呼ばれる秘儀についても書いています。
これは、彼女たちが、「聖婚儀礼」を行う秘儀的なパートナーだったことを示しているのでしょう。
キリスト教グノーシス主義では、女性は堕天して人間の中に堕ちた神性である「ソフィア(智慧)」の象徴であり、「娼婦」とも形容されます。
このような秘教的な一派であるマグダラのマリア派は、南フランスのプロヴァンス地方に伝導されました。
この地では、現在もマグダラのマリアの頭部像や頭蓋骨を担いで練り歩く祭りが行われています。
また、イシスなどのオリエントの女神信仰を秘密裏に継承する「黒い聖母像」を祀る教会が多数存在します。
中世インドの屍林の女神信仰
インドには、ヒンドゥー教に入れてもらえない、アウトカーストの土着の宗教が多数あります。
その中の女神信仰は、「マリアイ」と呼ばれます。
インドの葬儀の多くは風葬だったため、都市周辺に遺体置き場の森(屍林)がありました。
そこには、アウトカーストの女神信仰があり、その女性司祭と、そこで修行を行うヨガ行者がいました。
女性司祭は、オリエントの「聖娼」と似て、女神に仕えながら、性的儀礼を行う者でした。
一方のヨガ行者は、シヴァ神のように、死体を燃やした灰を体に塗り、プラーナのコントロールを行うようなハタ・ヨガ系のヨガを行う行者でした。
そして、両者の間で、「性ヨガ」が生まれたと推測されます。
また、祭りの時には、彼らによる、ディオニュソス的な狂宴や、集団による性的儀礼も行われました。
仏教やヒンドゥー教といった宗教の垣根を越えて、インド中世の宗教を席巻したタントリズム(密教)は、そんな「屍林の宗教」の影響を強く受けて生まれました。
そして、11~12Cになると、「ヨーギニー(瑜伽女)」と呼ばれる、「性ヨガ」を行う女性修行者も興隆します。
後期密教の性ヨガ
後期密教の、特に中世のインドの行法では、「性ヨガ」が重要とされました。
重要というより、それが核心かつ、必須の修行法であると考えられていました。
また、「性ヨガ」は、集団的な儀礼としても行われました。
後期密教では、煩悩を修行に利用することを特徴としました。
煩悩によって固定化した感情や感覚を、止滅させるのではなく、無形の力に解放することで、悟りを目指すのでしょう。
煩悩の中でも愛欲を利用する修行法は「貪欲行」と呼ばれます。
具体的には「性ヨガ」です。
「性ヨガ」は、プラーナをコントロールして無概念の状態を引き起こし、空の智慧を獲得することを目的とする修行法です。
「性ヨガ」を行うために男性修行者に果たされる条件には厳しいものがありますが、女性パートナーにも、仏教の教理の知識、究竟次第の高度なヨガの技術など、厳しい条件が付けられています。
そして、「性ヨガ」は、観想(イメージ)した想像上の相手と行う場合にも、生身の相手と行う場合にも、互いを男女の尊格として観想します。
当然、この時、性欲はありません。
最初に性欲が利用されても、それを煩悩のない純粋な力へと解放します。
「性ヨガ」は、性行為や受胎をシミュレートして修行法にしていますが、同時に、それを智慧を伴うものへと浄化するのです。
このように、仏教の「性ヨガ」は、教義によって理論化されています。
ですが、観想される女性の尊格は煩悩を持たない聖なる存在であり、「性ヨガ」によって自分も煩悩のない聖なる存在になると言えます。
この点で、女神の化身である「聖娼」から、聖なる力を受け取ることと、類似しています。
後期密教の父母仏とガナチャクラ
後期密教では、男性の仏と女性の仏(明妃)が性的に合体した「父母仏(歓喜仏)」が描かれます。
これは、教義的には、智慧と方便(慈悲)の不二を表現するものとされます。
瞑想においては、無概念(無相)の状態と、有概念(有相)の状態の同時性です。
ですが、その背景には、神々の「聖婚」の観念があったのかもしれません。
実際、曼荼羅の諸尊は、「父母仏」の性行為から生まれるとされ、そのような曼荼羅生成の観想が行われます。
つまり、「父母仏」の「聖婚」が、曼荼羅を生み、世界を生むのです。
「性ヨガ」は、定期的な集団儀礼として行うこともあり、これは「ガナチャクラ(聚輪)」と呼ばれます。
これは、男女の修行者が、曼荼羅上に配置された「父母仏」になって、曼荼羅を再現して行うものです。
「ガナチャクラ」は、夜間に行われるのですが、星の回転移動に同期して、女性が曼荼羅上を回転して移動し、パートナーを変えていきます。
また、「ガナチャクラ」は、インド各地の聖地で行われていて、修行者は聖地のネットワークを巡礼しながら行うことになります。
このように「ガナチャクラ」の性ヨガ儀礼は、曼荼羅の諸尊の全体性、天の星々の全体性、各地の聖地の全体性を体現するものでした。
中世日本の稚児灌頂
寺院で僧の雑用の世話をする少年は、「稚児」と呼ばれました。
中世日本の天台宗の寺院では、「稚児灌頂」によって稚児を観音菩薩とみなし、性愛を通して僧侶が救済されるという、秘密の思想、性儀礼がありました。
これは、後期密教の「性ヨガ」とはまったく異なるものです。
仏教では、原則的に、女性との性行為は禁止されています。
そのため、一般には、僧の性処理のために、女性の代わりに稚児が相手にされたと解釈されています。
確かに、そういう側面はあったでしょう。
ですが、女性だけではなく、男性とも、少年とも、性行為は禁止されていました。
例えば、『往生要集』には、稚児との交接は地獄に堕ちる行為と書かれています。
「稚児灌頂」の背景には、子供に神性を感じる日本の宗教的感性と、菩薩などが女性となって僧の相手をして救済する、という思想がありました。
神道の祭りでは、稚児が聖なる存在として扱われてきました。
中世の仏教では、仏や菩薩、祖師が童子の姿で表さることもよくありました。
また、寺院では、舞楽法要として稚児による童舞が行われましたが、これは、聖なる舞いでした。
その一方で、鎌倉時代から、性欲に悩む僧を、観音や吉祥天が、人間の女性の姿になって相手をして、救うという思想がありました。
ここには、人間の女性でないから戒に触れないというだけではなく、相手が聖なる存在であることが、性欲を浄化するという思想もあったのでしょう。
室町時代の天台宗で行われた「稚児灌頂」は、稚児に印と真言を授け、稚児を菩提山王の化身として敬う儀式です。
そして、その稚児は、恋愛の対象となったり、性の対象となったりしました。
勧請を受けた稚児は、化粧された美少年という、男女を越えた聖なる性であり、神仏としての聖性も持ちました。
ですから、稚児への性愛は、仏教化された一種の「聖婚」として、性愛の浄化という側面があったのでしょう。
これは、後期密教の「性ヨガ」の思想よりも、少年愛を通して美のイデアに至るという、プラトンのエロスの道に近いものなのかもしれません。
*主要参考文献
・「メソポタミアの神像」松島英子
・「聖娼」N・クォールズ・コルベット
・正典福音書、「トマス福音書」、「フィリポ福音書」、「マリア福音書」
・「ガナチャクラと金剛乗」静春樹
・「遊女と天皇」大和岩雄
・「稚児の性」橋立亜矢子
・「日本仏教における僧と稚児の男色」平松隆円