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20年前の修羅場の前に。

はじめに

私の家族は数々の修羅場をくぐり抜けて、今、何もなかったことのように生きている。

家族構成は、父母私妹の4人。
その後父に愛人が何人かいることが発覚、私達には異母妹がもうひとりいる。彼女と私は仲良し。彼女のお母さんとも良好な関係。もうひとりの愛人さんには、実の母以上に甘えさせてもらったり。
そんな今ですが、そりゃ当時はいろいろあった。
20年前のあの修羅場、裏切り、心の傷、葛藤を書き留めておかないと、という私の使命によりここに書くことにした。
もし10代、20代の方たちが、人生のパートナーを選ぶときに参考になれば幸い。
そして、家族を作っている真っ最中のあなたにも、何かを残せればそれもまた嬉しい。
何より私の娘たちへ贈りたい、ママの戦闘記。

はじまり、はじまり。

父方の祖父

20年前の我が家の修羅場の話の前に、まずは祖父について。

祖父は女好きな実業家。群馬県にて造園業を営んでいた。
年上女性(私の祖母)とはじめの結婚で子供を3人もうけるも、好きな女ができたと家族と家業をばっさりと捨て、新しい家族を作った。
残された父(長男)はまだ小学校低学年。祖母は子育て、家業の切り盛り、姑の世話・・とそれはそれは苦労したらしい。
父は真っ赤なマニキュアと茶髪が大嫌いだったので、おそらく祖父の不倫相手はそういう派手な風貌の女性だったのではないか?と勝手に推測している。
往々にしてシングルマザーに育てられた子どもたちはマザコンになる。
いや、言い方を変えると、皆さんお母さん思い。そりゃそうだ。
他の家族を作ったとはいえ、祖父は長男である父の就職の世話をしたり、自分の会社に引き取って面倒を見ていたらしいが、後に意見の食い違いがあり親子の縁を断絶する。
一方次男(私の叔父)は一番気が優しく(風貌は完全に田舎のヤクザ)、調子も良いので祖母と家業を継ぎつつ、祖父にも可愛がられ、良好な関係は続いていたらしい。
末っ子の長女(私の叔母)は、気が弱く、周りに気を使いすぎる人。そして父親のような男とは正反対の実直な男性を伴侶に選んだ。

祖父の葬儀で見た異様な世界

そんな祖父の葬式で集まった家族はなんと4組。つまり結婚は最低でも4回はしていたのである。
まるで映画の世界である。
私たち孫世代はもちろん、父達子供世代もはじめましての、他の家族たちとの対面。
家族ごとに丸テーブルに座り、私は何がなんだかわからず、横目でチラチラ見ながら、あれが2番目の家族、あっちは3番目、そしてそこが最後の家族だよ、とヒソヒソと従兄弟から教わる。
今更はじめまして、なんて挨拶も変だし、その場にただいるだけで、特に深い交流はなく淡々と葬儀は進んでいた。
死んだ人を囲んで母違いの家族が集まる、なんて本当にあるんだなぁ、と当時20代後半の私は、自分がその人たちと血縁関係があるなんて考えられず、一歩引くどころか100メートルぐらい向こうからこの親族の集まりの様子を見ていた。
何故かその時私は、一番最後の奥様(年齢はおそらく40代前半だったのか)から気に入られ、彼女が経営しているという代官山のエステサロンに「遊びに来てね」と店名刺を手にぎゅっと握らされたのを覚えている。
その最後の家族には中学生の娘がおり、ぴっかぴかのセーラー服で参列していた。その最年少で、祖父と一番濃い関係をついさっきまで築いていた彼女がわーん、と号泣していたのが不憫でならなかった。
その子以外の実子は皆おじさんおばさん。そのコントラストといったら!
祖父が御年80まで子育てをし、40歳も若い奥さんと家庭を築いていたのかと思うと、最後まで現役の男だったんだなぁと感心してしまう。
山本寛斎さんや黒澤監督並みの、カリスマ性と経済力、そして時代性があったからこその人生なのか。
令和の恋愛することさえおぼつかない、恋愛に価値を見出さないという世代が、祖父の生き様を見たらどう思うのか?

ところで祖父と父は何十年も絶縁していたので、私が生前の祖父に会ったのは1度きりだ。なので、彼になんの思い入れもないし、なんなら顔も覚えていない。
それこそもし私が銀座のホステスで祖父が客として来ていたら・・なんて考えるとまた別の薄ら恐ろしい物語が始まりそうなので、脳の回線を止めよう。

そんな異様な葬儀の場でも、長男としての威厳を発揮させたいのが私の父である。意気揚々と家族たちの先陣を切って得意のスピーチを始めた時は、さすがだなぁと感心した。
絶縁していて晩年の祖父のことなんて全然知らないくせに、堂々と葬儀の場をまとめていた。
叔父や叔母たちは言った、「祖父と父の性格は本当によく似ていた」と。

そんな祖父のDNAを受け継ぎたくなかったのに、結果同じことを繰り返した男が私の父である。





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