韓国での衝撃。
高校2年生で行く修学旅行は、韓国だった。
海外への修学旅行は、公立高校では珍しい。
わたしの人生史上初の海外体験でもある。
そこでの、とある博物館への見学から、戦争と平和を考えるとき、ひいては生き方を考えるときに大切な考え方を知った、というお話。
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3泊4日で、その内容はおおまかに、
板門店見学、ソウル市内観光、現地高校生との交流(わたしは研究発表の選抜グループだったため、その現地調査で別行動)などなど。
板門店見学は刺激的だった。
バスを乗り換え、ガイドは認定されたガイドのみ。
38度線の周囲2キロは中立地帯のため、国連が管轄する。
国連の兵士がバスに同乗する。
事前に「この非武装地帯で何があっても(命がなくなっても)、自分で責任取ります」みたいな主旨の書類にサインさせられる。
板門店とは、朝鮮戦争の休戦協定が結ばれた場所。
その会議をした建物が、38度線を踏むように立っており、わたしたちは韓国側から入り、その会議室の中で、38度線を越えることができる。
警備をしている韓国兵は、ロンドンのバッキンガム宮殿などを守る衛兵と同様、微動だにしない。
写真撮影はOK。日本の高校生にパチパチ写真を撮られる彼らの心境はどんなんであろうかと思いながら、わたしもパチリ。
会議室の窓越しに、北朝鮮兵士が、あちらも微動だにしない体勢で立っている。
窓越しだが、すぐそこにいる北朝鮮兵士。
テレビの中だけの存在だった北朝鮮を、間近に感じられた体験だった。
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もうひとつの刺激的だった場所、
そして、この記事で語りたいのは、「独立記念館」の見学について。
独立記念館とは、
ソウルから車で1時間半ほど。
バスを降りると、だだっ広い敷地に、重厚な建物やモニュメントがそびえたつ。
当時の正確な心境は忘れてしまったが、
正直、日本にもよくあるような、普通の戦争資料館・平和資料館、民族の歴史を紹介した資料館だと思っていたような気がする。
民族の歴史を時系列で紹介する中で、日本の植民地になった期間があって、その流れのいち期間としての展示がある、程度にしか予想していなかった。
だから、実際の展示は予想を大きく裏切ったし、裏切られた分の衝撃は大きかった。
日本の植民地下時代の展示は、記憶の断片にしっかり残っている。
日本の植民地化に反対し投獄されたであろう朝鮮の人々と、虐待・拷問をする日本兵がろう人形で再現されている。
しかも、シーンごとに小さな小部屋に仕切られ、檻の中にろう人形が非情なシーンを再現し、観覧者のわたしたちは、あたかも牢獄の檻の外から、限られた隙間から「のぞき見」するような形での演出がされている。
非常に巧みだ。こんな展示方法、今までに見たことがない。
わたしは初めて知った。
「日本は”加害者”だった」(※)
これまで受けてきた義務教育での平和学習や、歴史の授業・教科書では触れてこなかった視点を、ここで初めて認識した。
仮に薄々感じていたとしても、ここまではっきりくっきり「加害者」という言葉が頭に刻み込まれることは、この展示を観るまではなかっただろう。
この衝撃がさらにわたしの心に深く刻み込まれた理由に、
この独立記念館に、韓国中の小中学生が社会見学として見学する場所だという事実があった。
わたしたち日本人が、修学旅行で広島・長崎・沖縄に行くように、
いや、修学旅行人口よりも、韓国の方がもっと多く、もっと濃密に歴史を学んで、この独立博物館を見学するに違いない。
そう思ったときに、「そりゃあ、歴史認識問題、起こるよな」って。
記念館を出て、バスが待つ駐車場までの道のりは、とても重かった。
同じ展示物を観ているはずとは思えないほど、普段と変わらず笑いあったりじゃれあったりしてる一部の同級生(おおむねやんちゃな男子)に対して、どんな神経をしているのだろう?と、わたしは冷ややかな目で彼らを見ていたのをかすかに記憶している。
「同じ物事を見たときに、Aという考え方をする人もいれば、Bという考え方をする人もいる」
その後の人生で生かされた大切な概念も、この体験がスタートだった。
人生初の海外旅行で、大切な考え方のひとつと出会ったときのお話。
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