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「相手は自分の鏡」と聞いて、ざわついてしまうあたなへ。/anything but ordinary #4

相手は自分の鏡

なんて、耳にタコができるくらい聞いている。

これが、頭でわかっていても、実際に自分のものにしている人はどれくらいいるだろうか?

目の前のムカつく相手を前に、「相手は自分の鏡」なんて到底思えない。

目の前のムカつく相手を前に、自分を同一視なんて、怖くてできない。


けど、今日初めて、これらのコトバを体感した。

ある学びを基に、問いかけ方法を変えてみたのだ。

「目の前の人や出来事は、
あなたに何を見せてくれているの?」

そして、
ムカつく相手との同一視するときに「怖さ」が出てきてしまったときに、
「半分だけ、同一視する」

***

ムカついた人というのは、他部署のAさん。

わたしは経理の仕事をしているので、必然的に会社内のすべての部署の人たちとコミュニケーションを取ることになる。

Aさんは、前職が規模の大きい会社だったのか、報連相や労務関係の数字など、きちんとやりたい系。

ちょっと緩め(自己の裁量と責任に任せられてるところが多い)のウチの会社での勤続が長いわたしにとっては、「そこ、そんなにキチキチしなくていいんじゃなーいの?」と、反射的に思ってしまう。

けど、彼は「これはどうなんですか?あれはこうじゃないですか?」と、いつもの調子。

端的に言葉を選んだ文面は、いかに無駄な部分を削ぎ要点を伝えるかという、ビジネスマンとしてはごくごく正当な言い回しだ。
それがむしろ、「自分の言ってることは正しいです。」と言わんばかりで、余計に鼻につく。

一度、「こいつ。」と思ってしまうと、それ以降色眼鏡をかけて相手を見てしまう人間の本能のせいもある。

「仕事、増やしやがって。」

いつもだったらムカついて、自分で昇華するか、同僚にちょっと愚痴って終わりなんだけど。

***

今日は、すぅーっと、この問いがわたしの中に入ってきた。まるで魔法のように。

「目の前の人や出来事は、
あなたに何を見せてくれているの?」

本質は「鏡」と一緒の問いなんだけど、言い回しが違うだけで、違う問いのような気がした。

Aさんがわたしに見せてくれたのは、
「Aさんのような鼻につく言いまわしで、さも自分が正当である雰囲気をにおわす報連相の文面を書いている自分の姿」だった。

すべての部署にかかわる経理の性質上、伝えるべきことはきちんと伝えなければいけない。これは本当。

それが、特に時間に厳しいわたし※は、
ちょっと期限を守らないだけで、
ちょっとレスポンスが遅いだけで、苛立ってしまう。
表面上は理性で押さえても、起こってしまう感情の核心まで隠すのは至難の業。

※時間に厳しいわたしについては、「時間と、わたし。」の方で、これから記事を積んでいこうと思います。

感情はエネルギー。
エネルギーは、たとえ遠く離れていたとしても、伝わる。
ましてや、それが「文字」という媒体を通してだと、なおさら。

みんなそれぞれ自分の仕事で忙しい。
それなのに、他部署から「あれせい、これせい」と言われ、言われるだけならまだしも、その「文字」には怒りのエネルギーが乗っかっているとすれば…。

自分で自分が恐ろしくなった。

じゃあ、この怒りのエネルギーを社内中に振りまいているわたしは、
「わたしがAさんにムカついている」のと同じくらい、
「社内の人はわたしにムカついている」のか?

と考えれば、たぶんそうではない。

性別も違えば、性格も違うし、キャリアも仕事のやり方も違う。
わたしが会社に受け入れられている部分はちゃんと受け入れられているはずだし、評価されている部分はちゃんと評価されているはず。

そう。
「鏡」だと、頭の先からつま先まで、「全部、ムカつく相手と一緒ですよ。」と言われているイメージがある。

一方、「半分、同一視」だと、もう半分に自分の尊厳が保たれる。

我ながら、名案だと思う。

今日は、良いことに気づけてよかった。
Aさんに感謝!
と言いたいところだが、やはりムカつくので、
これも「半分感謝」ということにしておこう。

***

目の前のムカつく相手を前に、自分を同一視なんて、怖くてできない。

怖いけど、やってみる価値はある。

怖さを乗り越えるために

1)問いの表現を少し変えてみる
2)半分だけ、同一視してみる

「相手は自分の鏡」と聞いて、ざわついてしまうあたなへ、贈ります。

今日もお読みいただき、ありがとうございます。

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かくたりさ
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