【読み物】クナーペン事件(2001年)
さいきん思い出したのは、2001年に起こったある事件のことだ。モラヴィアに足を踏み入れて、一年が経とうとしていた頃だった。
①火災
8月1日午前3時すぎ、ブルノ市郊外スタリー・リースコヴェツ地区にあるクナーペン夫妻の自宅にて火災が発生した。それは、モラヴィアの警察史上、もっとも大規模にして、もっとも長期にわたる捜査の口火であった。
出火した建物は改築中ではあったが、5人が就寝していた。シュテーファン・クナーペンの妻は、地元のひとで23歳。その3人の子と、その祖母(クナーペンの義理の母)の計5人であった。
迫りくる危機から5人を救ったのは、仔犬だ。
さかんに吠えて、まず母親を起こした。つまりクナーペンの妻であるが、家屋を見まわすと、廊下からガソリンとガスの臭いが漂っている。自身の母親も起こして、いっしょにその源をつきとめようとした。
すると、施錠されていたドアのところに、ガス器具が発見された。そのドアはしかし、ふたりとも就寝前には施錠をしなかったはずである。さらに廊下には、ジェリカンが転がっていた。夜のあいだに何者かが運び入れたにちがいない。
のち、家屋を5人もろとも焼き払おうとしたのだと推定された。しかも放火犯は、炎上した家からなんぴとも逃げられぬように、夜になってから扉に施錠したものと思われた。この母親は警察と消防に通報したものの、その到着の寸前にガスは爆発を起こし、炎上した。5人全員とも窓から庭へ脱出し、難を免れた。
意図的に火災が起こされたという幼児らの母親による推定は、火災現場の消防隊によっても確認された。火事が起こされた四か所が家屋内に見つけられたのだ。これまで特定されていない放火犯ないし潜在的殺人犯が、ガソリンを運び込んだとみられる別のジェリカンも発見された。
放火犯は、二箇所の扉にもガソリンをかけて、火を放った。ガス漏れの元は、未使用のガス管の弁であり、これまで器具に接続されたことはなかった。弁は床面から二メートルの高さがあり、家の者すべてが就寝したのちに開放されたにちがいなかった。
ひじょうに重要な情報は、現場を調べていた鑑識係によってもたらされたもので、家屋への暴力的な侵入の可能性が排除された。家の庭に二頭の犬が放し飼いになっていたにも拘わらず、夜間に見知らぬ者の動きにたいして、一頭も反応しなかったのだ。家主は、何も盗まれていないことも確認した。
刑事らは、現状利用可能なすべての情報と証拠にもとづいて、結論に達した──当該の家屋に自由に出入りでき、家の内部を知悉する者によって、意図的に火災が起こされたものだ、と。
②失踪した子ども
翌日、つまり2001年8月2日、フラニツェ・ナ・モラヴィェに住むヴォスマンスキー氏が、自身のふたりの子どもが失踪したことを、ブルノの警察に届け出た。
10歳の息子・ホンズィークと13歳の娘・ダグマルで、氏の義理の息子であるシュテーファン・クナーペンとともに、2日間の予定でハイキングに出かけたものだった。
クナーペンは、南モラヴィアの史跡を子どもと訪ねる意図であった由で、野外で1泊し、8月1日に帰宅する予定であった。3人は、ホドニーン市登録ナンバーつきの、銀色のルノー・エスパスでブルノを出発した。子どもは水着も持参していた。車内には、寝袋がふたつ積まれ、キャンピング用品もあった。
クナーペンのみならず、子どももそれぞれ携帯電話を所持していたにも拘わらず、両親や親類が発信したり、SMSを送ったりしても、だれも応答しなかった。
SMSによるメッセジは、7月31日16時33分、子どもたちが母親に送ったものが最後であった。そこには、子どもたちの所在地すら記載があったのだが、母親はそれを記憶しておらず、漠然とボスコヴィツェあたりのことであろうと思い込んでいた。
クナーペンもまた、2時間ほど早く、つまり同日14時30分に、妻にメッセジを書き送っていた。そこにはこう書かれていた。
「いま、ウヘルスキー・フラヂシュティェ近郊オストロジュスカー・ノヴァー・ヴェスのお城のまえにいるよ。」
これは虚偽であった。携帯電話会社がのちに確認したところによると、このときクナーペンはブチョヴィツェ付近を移動中であった。
③シュテーファン・クナーペン
警察は、ベルギー出身の41歳、シュテーファン・クナーペンに関して、未確認の情報を得ていた。
クナーペンは、フランスにて軍の学校を卒業し、外人部隊に入隊するも、負傷して除隊、恩給の給付をうけていた。三たび結婚している。趣味は旅行で、とりわけ城や宮殿、遺跡を訪れることを好んだ。武器類への興味関心がたかく、兵器や軍事に関する雑誌を多数、定期購読していた。それ以外には、各種の薬剤の取扱説明書を蒐集していた。
三人の子どもには、よく注意を払い、いちども体罰なぞ加えたことはなかった。
しかし、2001年7月に、妻にたいする振る舞いに変化が生じた。この時期には、ベルギーの元妻にたいする多額の送金が必要となったという報告もある。それで現在の妻にいくたびか暴力を振るったともつたえられている。
妻はあるとき親類のまえでクナーペンに陳謝し、諍いや誤解の原因はすべて自分にあるとしたが、これには裏があった。改築費用に窮し工事が中断、自宅の半分ほどが居住不能になっていることで、心理的に不安定になっていたというのだ。
④マスメディア
ハイキングの目的地、方向、行方不明者らの動きについての情報は不明または不完全であり、意図的な虚偽ですらあったため、警察に下令された捜索は全国規模のものであった。
チェコ共和国全土の、刑事警察、機動隊、交通警察、国境警察、鉄道警察に通達された。同時に、11名の経験ゆたかな刑事による特別チーム「こども」も編成された。19点に関する綿密な計画にしたがって、行方不明となっている子どもを捜しだすことを唯一の任務としていた。
ところがマスメディアは、三か月のあいだ、なんの証拠もなく子どもの命運に関して勝手な予想を書きたてるいっぽう、警察には無能というレッテルを貼り、情報隠匿の嫌疑をかけた。
タブロイド紙『ブレスク』などは、クナーペンを小児性愛症と決めつけ、ベルギーのオーフェルペルト市まで出向いて取材を行ったようだ。その上で「ジキルとハイドのごとき二つの顔をもつ男」と書き立てている。
また、霊能者だ、透視者だという、種々のおかしな輩が荒唐無稽なことをいいはじめた。そうした言説は、経過する時間とともにしだいに憂鬱の色を増していった。
たとえば、7月31日の時点ですでに、子どもは死んでいたのだ、と。
⑤捜索
特別チームが、計画のうちのひとつめの任務を達成しかけた8月7日、ネボヴィディの住人によって、オストポヴィツェ付近の森で死体が発見された旨の通報があった。
死体はすでに腐敗が進んでいた。死体のちかくでシュテーファン・クナーペン名義の身分証明書が発見された。同じく見つかった携帯電話も、それがクナーペンのものであることが証明された。死体の首には双眼鏡が下げられており、死体発見現場からはクナーペンの自宅が望むことができた。
解剖の結果、たしかにシュテーファン・クナーペンであることが立証された。盲腸炎の手術痕や歯科所見のほか、DNA鑑定もそれを裏づけた。死体に外傷は見られなかった。しかし、心臓に重篤な病が確認された。血液中に、鎮痛、不眠治療、統合失調症、攻撃性の抑制といった用途の六種もの薬剤が検出された。そのうちの一種は、通常の医学において麻酔導入に際して使用されるものであった。死因として、薬剤の大量服用後に心停止が起こったものと専門家は断じた。
一日後、警察の捜索活動に際し、オストポヴィツェにて、乗り捨てられた乗用車が発見されたが、これはクナーペンのミニヴァンであった。
車輌内部から、失踪したきょうだいの携帯電話が見つかり、さらに大量の薬剤とその包装材も発見されたが、これは死体から検出されたものに一致していた。トランク内からはガソリン用ジェリカンにもちうる合成樹脂製のそそぎ口と、合成樹脂製の結束バンドが発見された。
放火による殺人未遂とふたりの子どもの殺害を立証する物証のほかには、フラマン語と英語で書かれた二通の手紙が発見された。両の手紙とも、自殺者の辞世の手紙を思わせる内容であった。結末の数行は以下のように書かれていた。
「後悔はしていない。というのも、これは起こるべくして起こったものと知っているからだ。わが人生というのは大失敗そのものだった」
⑥B-B-B-Bの線
特別チームは、すべての情報に基づいて、失踪した子どもの潜在的所在地をいくつか特定した。城、宮殿、遺跡といったシュテーファン・クナーペンの好んだ場所や、子どもの水浴びに適した水辺を含む、ブチョヴィツェの、実証されている最後にいた場所も考慮された。行方不明者らの推定される動線は、以下の点を繋いだものとして想定された。
ブルノ=ブチョヴィツェ=ブランコヴィツェ=ブフロヴィツェ。指定された区域の面積は、何百キロにもおよんだ。のちに判明したように、ブフロヴィツェは誤りであった。おのおの独立した目撃者からの複数の証言によると、子どもが菓子店で目撃されたということだったが、のちに確認された事実はそれと矛盾する。
すべての脇道を含む特定されたルートの自動車化警察のパトロールによる広範囲にわたる捜索は、ひとつの目標を有した──捜索される車輌またはその乗員が現れる可能性のある空間をすばやく探査すること。
この調査でのパトロールは、子どもからじつに300メートルに満たない至近を通過したこともあった。このハイキングに水着を持参していたことから、子どもが現れると推定された広範囲の水辺では、潜水士によっても捜索がなされていた。
捜索に際して、ヘリコプターに搭載された赤外線応用装置、いわゆるサーモグラフィーによる探査はまったくの失策であった。のちに明らかになったように、子どもはふたりとも断熱効果の高い寝袋に包まれていたからである。
行方不明者の発見を即座に警察に通報するようにと、各市町村の住民へのいく度かにわたる呼びかけもまた、本質的にすでに無駄となっていた。それでも、4か月のうちに警察は150件以上の通報ないし情報を受け、2名の警官がその処理に忙殺されることとなった。通報または情報に信頼性の徴しが現れたばあいには、即座に警官隊やブチョヴィツェ駐屯地の兵士らが適切な方法で急派された。
いち日のうちに──たとえば8月24日には、警察官らが兵士とともに56平方キロメートルを捜索し、サーマルヴィジョン搭載のヘリコプターは、面積にして300平方キロメートルの空間を探査した。国境地帯を捜索する警察官と兵士の数は、最大で650人に達した。
2001年9月3日、警察はインターポールから、行方不明の子どもに関して、国外にはなんらの足取りも発見されなかった旨の情報を得た。これは、タブロイド紙が報じていた、子どもがパリの繁華街の一画に暮らしているという見解を否定することとなった。
なに者かが債務の支払いを強要しようとし、正体不明の男二名が、きょうだいをクナーペンの実子であると思いこみ、誘拐した──というまことしやかな説であった。別のタブロイド紙は、捜索のあいだじゅう、不法な臓器移植を目的とした国際的組織による誘拐犯行説を唱えていた。
⑦帰結
2001年11月25日、通行人が、ヴィシュコフ地方のブランコヴィツェ付近にて、落ち葉の層のしたに、ふたつの寝袋を発見した。
手を縛られた2体の子どもの死体が入っていた。専門家によって、当該のきょうだいの遺体であることが確認された。検視により、絞殺されたことが判明した。
ふたりは、クナーペンの車から発見されたバンドによって拘束されていた。
⑧参考文献
この事件については、当時の記事がいくつかウェブ上にのこっている(『ブレスク』紙など)。また7年後、『ドゥネス』紙のオンライン版に回顧的な記事が出来した。これを執筆したのは、法学博士ミロスラフ・イェドリチュカ氏である。氏のウェブサイトも参考にしたが、現在は見つけることができない。
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