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孤独な環境で気付く自分の性質

誰も知り合いのいない、新しい土地に引っ越してきて10ヶ月ほどになる。
主にパートナーの都合で引っ越してきたため、彼にはいくつかのコミュニティがあるが、私は全くのゼロからのスタートだった。
今まで、特に学生時代の私は新天地に行くことに恐れなどほとんどなかったし、緊張はしてもその場に入っていくことにあまり抵抗はなかった。
自分はどこへ行っても生きていける、と信じて疑わなかったし、だからこそこの地に来ることも深く考えずにすぐ決めた。

ただ、こうして10ヶ月たって分かったのは、私は自分が思っているほど社交的ではなかったのだ、ということ。
この地に気軽に連絡して休日に会いたいと思えるほどの友達はいない。
知り合い程度の関係はできたが、それ以上踏み込もうとは思わない。

パートナー以外の人間と話さず一日が終わることなんてしょっちゅうあるし、話したとしてもスーパーのレジで「レシートはいりません」と断るくらいのもの、なんてこともざらだ。
周りを見渡して、自分だけがこの世界から浮いているような、取り残されているような気持ちになることもたくさんある。

自分はどんな場所にも適応できる器用な人間だと思って生きてきたのに、不器用で臆病な側面がどんどん表に出てきて、最初は正直戸惑った。自分で気付いていなかった自分に出会ったような気分になった。

学生の頃とは違い、自分も周りも年齢が上がって「友達」のハードルが上がってしまっているだとか、新たな人間関係を構築する「コスト」「労力」が先に浮かんで、なんとなく距離を取って接してしまうとか、お互いに家族や恋人などケアする存在がいるとか、色々理由はあるのだろうけれど、とにかく人間関係の深め方が分からなくなってしまった。あるいは、その気力がなくなってしまった。

そんな自分のことを嫌いになりそうになった時は、他人の人生を想像するようにしている。
何も憂うことなく元気に過ごしているように見える友達でも、何かもやもやすることが少しくらいはあるだろうな
とか、
あてもなさそうに町を歩いている人、ベンチに座って浮かない顔でスマホをいじっている人、スーパーで買い物をしてる人、みんな何かしらもやもやすることがありつつも、自分なりに頑張って生きているんだろうな
とか、
有名な画家の人生とその時々に描いた作品を紹介するYouTubeを見て、こんなギリギリで波乱万丈な人生を送った人もいたんだな
とか。
自分のことだけに焦点を当てず、周りの人々のことを想像すると少し視野が広がって、「ちょっと何か頑張ってみようか」と前向きな気持ちになれる。
ただおしゃべりをしているポッドキャストを聞きながら30分ほど散歩をしてみるのも良い。ちょっとでも外の空気を吸うと気が晴れる。
散歩の気力さえない時は、その場でいつもより深く息を吸って吐くのを数回繰り返すだけでもリラックスできる気がする。

こうしてもやもやする気持ちを文章にして吐き出してみると、後ろ向きな気持ちだけでなく、どんなに小さくても今まで自分が達成してきたことを振り返る余裕もできるな、と感じる。
俯瞰してこの10カ月を振り返ってみれば、意外と様々なことはしたと思う。ボランティア、勉強、パートタイムの仕事、新しい趣味の発見、旅行、自分の次の道の模索と決定などなど。
何も繋がりのないところから、自分で探して自分で行動してスタートさせた。もちろん彼や家族のサポートがあったからこそなし得たことばかりだ。
でもとにかく、ローカルな人間関係が構築できずとも私は生きている。本当にゆっくりだし、道草ばかりだけれど、歩みを進めている。

この孤独感は永遠に続くわけではない。一時的なもの。
日々何も変わらないような気がするだけで、実際には何かが少しずつ変化している。
きっと何年か後にこの時期のことを振り返れば「まあ、そんな時もあったかな」くらいの軽やかな気持ちになっていると思う。
孤独感が続くと小さなことを重くとらえがちだから、そういう時こそこうして文章にしてみて、気持ちの整理をするといいのかもな。






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