サポートの本質

ステップファミリー系の記事は、あまりに子供に寄り添ったものが多い。
子供を第一に考えてくださいね。だそう。
そんなことは言われなくても分かる。

大人、子供というカテゴライズではなく、
「サポートしたいことの本質は何なのか?」
記事や支援団体系のメディアに触れると、いつも違和感を覚える。

そういえば、昔から「ボランティア」というものが大嫌いだった。
何のためにやっているのか? 
相手にとって必要なものになっているのか?
自己満足じゃね?
学校とかでやる「ボランティア活動」は強制で、本質からズレている違和感を拭いきれなかった。
この感覚に近い違和感かもしれない。

私の場合、父子の生活が出来上がっているところへ1人でジョインした。
味方はいない。完全アウェイ。
子供は父がいればいいから、孤独ではない。
子供だって多少の戸惑いはあっただろう。
しかし、あれだけわがまま放題なんだから、戸惑いもなにもないだろう。
なにせ父がいればいいのだ。

父子の生活の軸に私が寄り添っていくような流れ。
変化させていく必要があるのは私の方だった。
あちらが歩み寄ることはなく。
前の結婚が7年。離婚後の1人暮らしは1年ほど。
私には私の暮らしのスタイルがあった。
もちろんいろんな前提は変わっていくことを覚悟してこの家に来た。
それでも、いたたまれない、孤独と向き合わなければならない、お酒に逃げる時間が増えてしまった。

1人の孤独と、家族がいる孤独。圧倒的に後者が身に染みる。

こんな大人へのサポートなどはないのだろうか?
この家では間違いなく、誰がどう見ても自分の負担しかなく、私がサポートを受けたい。

今は、混ざるのではなく、それぞれの生活を並行して一定の距離を保っている。自分で決めたやり方。
この生活を継続するのかも常に頭に置きながら。

母もやめた。夜ごはんだけは作る。
それ以外のことは関与しない。
子供の顔はもう1ヶ月ほど、しっかり見ていない。
顔を見ると、憎たらしさが込み上げ、私は手が震える。
この子はたぶん、グレーと言われる子。
ずっと消えない疑念。
加えて夫の顔もたいして見てないが。

自分を守るため、今は自分以外を放棄する必要がある。

本当に愛する者の顔を真正面から見つめる時間。
意外と限られた時間なのかもしれない。
なんてことを旦那子供に心の傷をつけられ、愛を失った大人がひとり思う。 
家庭のことは、他責にしちゃおう。
私は何ひとつ悪くない。

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