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死んだ友達のこと語らせて

2回続けて暗い話で申し訳ないが、どこかに友達の本当のことを残しておきたい。次回は明るい話に(?)するつもり。一度、思いっきり語らせてください。彼女の名前は仮に『トーコさん』とする。トーコさんは私の20歳年上だ。自分のことを「おばあちゃんだから」と、よく言っていた。私は彼女のことをおばあちゃんだと感じたことはない。ライト文芸と上橋菜穂子が好きで、読書家だった。心が綺麗で少女のようだった。私の1番の読者だった。彼女は頭がいい人特有の不思議な話し方をした。『香君』の感想を話してくれたとき、主語が全くないので誰の話をしているのかわからなかった。春が来て、夏が来て、秋が来る。みたいななんだか大地が主語みたいな不思議な話に聞こえた。そういえば人間的存在が主人公じゃない小説はないな、と思った。大地が主人公なんて、いいではないか。私は彼女の『香君』が良かったので、自分が死ぬ間際まで『香君』は読まないだろうと思った。
彼女はセレブのマダムだったので、小粒の綺麗な歯並びが良い口元をしていた。笑顔がとてもチャーミングだった。セレブなのに贅沢はせず、いいワンピースを何着も持っていたけど全て若い頃に作ったものを何十年も着続けていた。本も図書館で借りていた。人に好かれていて皆んなが彼女に本をくれた。途中の巻しかないマンガとか、彼女は何も気にせず読んでいた。
私は当時書店員だったから、彼女にたくさんマンガや小説を貸してあげた。喜んでくれるから、本を勧めるのも楽しかった。
彼女はガーデニングが好きだった。彼女の家の庭は小学校のグラウンドくらい広い。そこの片隅に小さい家を建てて、家の周りだけに素敵な世界を創り出していた。あるお寺がいちじくの木を抜くというので、木をもらって庭に移植してもらったそうだ。いちじくは幹が柔らかくてカミキリムシの幼虫が入ってしまう。でもいちじくは頑張って毎年小さいけどとても美味しい実をつけた。毎年、私に分けてくれた。
彼女はセレブの奥様だったから働く必要はなかった。でも社会勉強したかったので、ヘルパーとして働きたいと旦那様に言った。旦那様は理解できなくて反対した。彼女の息子さんは理解してくれて、身元保証人になり、彼女の希望を応援してくれた。
トーコさんがヘルパーに行っていた家のおじいさんは芸術家だった。イケメンのおじいさんで、優しい。そのおじいさんの話を聞くと異世界で、私はいつも興味深く聞いていた。
おじいさんはある日、大根の一本干しを煮て欲しいと言った。トーコさんはそんなの料理したことがなくて、鍋いっぱいにとても硬い切り干し大根ができてしまった。おじいさんは「硬いけど、味はええで」と言う。トーコさんは「胃が悪くなるといけないので捨ててください」と答えた。
そういう話を月に2回くらい訪ねて行ってお茶しながら聞いた。
トーコさんとはお絵描きサークルみたいなもので知り合った。そこの部員たちはなぜかトーコさんに反発していた。トーコさんはそこの部長だった。トーコさんが現れるまで皆んなそろって、トーコさんの悪口ばかり言っていた。トーコさんは人の悪意が全く察知できない人だったので、さっと現れると皆んなにニコニコ話しかける。不思議な強さを持った人だった。私なんていじめられたら敏感にいじけて、さらにいじめられる。私はトーコさんに懐いた。すごい人だ。
お絵描きサークルはコロナで解散したけど、私はトーコさんの家に通い続けた。
去年の8月の末にトーコさんが「胃が痛い」と、病院へ行った。なかなか病気が判明せず、二週間くらい連絡が途絶えた。末期の膵臓がんで、肝臓とリンパに転移していた。
私は彼女が死ぬなんて信じられなかった。2年くらい持つだろう、と思っていた。1月13日に会って、「実感がない」と言うと病状をとても詳しく説明してくれた。「緩和ケアに入る」と、言う。
私はその頃、『無人島のふたり』と『これ描いて死ね』をトーコさんに貸した。山本文緒のことを「この人、私と同じ病気」と、言う。そうだよ、だから貸したんだよ。トーコさんは私の無茶なセレクトも悪くはとらない。私はもっと長生きして、もっと面白いものを読んで欲しかった。
2月5日の朝に彼女の息子さんからメールで、「今朝、亡くなりました」とお知らせがあった。私はお通夜もお葬式も行かなかった。トーコさんが白い着物を着ておねんねしてるのを見たところで、実感は湧かないんだ。でも、頭ではトーコさんがそこにいないことは知っている。トーコさんがいない会場に行くことは無駄。
父が死んだ時もそうだった。父も眠っているような表情で、死んだ実感は最後まで無かった。父は大阪で大きくなった人だから、大阪に行けばいるような気がする。でも、同時に世界中探して歩いても、もうお父さんには会えないんだ、とは感じた。矛盾している。祖父母もみんな亡くなって、家も取り壊され、跡には親戚が新築を建てて住んでいる。でも、そこへ行くとまだ祖父母の家があって、そこに皆んないるような気がする。
他の友達のお母さんが変死したときもお葬式に行けなかった。友達の顔が見れなかったからだ。かける言葉も持っていない。私はそういうのとても苦手みたいだ。
父が死んだときは、お葬式に母の敵がたくさん母の顔を見にやって来たものだ。
私はお葬式には行きませんので。
トーコさんは5ヶ月と数日しかもたなかった。でも、彼女はがんで良かった、と言った。「皆んなにお別れができる時間があった」と言った。
近所のおじさんが末期だったとき、結構長く生きていたから、トーコさんももう少し生きられると思っていたのだが。
トーコさんの命日の十日後、私は新しいバイト先で働いていた。環境の変化で私の中身はぐちゃぐちゃだった。バイト先の人たちは「緊張してるんだ」などと善意に受け止めてくれて、なんとかなった。その頃、私は椎葉村に行こうとしていた。そういう企画があったのだ。全てから逃げ出したかった。好きな仕事も辞めてしまい、私を支えるものが無かった。でも、周りに止められて今もバイトを続けている。
長くなりましたね。最後まで読んでくれて、ありがとうございます。

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さらき吟
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