ひとりで過ごす夜に|04.08
今までの人生で関わり合った、だけどもうきっと会わない, 会えない人に思いを馳せることがある。
姉妹共々お世話になった保育園の先生、小学校の頃逆上がりができるようになった時拍手してくれた近所のひと、不登校になった時そこまで仲が良かった訳じゃないのに心のこもった手紙をくれたあの子、過去に付き合った人たち、電車で出会って話し込んでしまったおじいさん、旅先で一緒の宿に泊まっていた素敵な3人組、仲良しだったのに喧嘩別れしてしまった友だち、だいすきなだいすきなお母さん。
そんな人たちを思ってどうしようもなく哀しくなる。決まって疲れている時か眠れない時なのだけど。
あの日の、あの時間の、あの人にはもう会えない。私にも、もう二度となれない。
そう思うと堪らなく哀しくなってくる。
人生はそんな哀しさの連続で、出会いの喜びより別れの哀しみが大きい。それは大人になったということでもあるのかもしれない。
昔から、大きなイベントが苦手だった。それが楽しみな物であればあるほど、終わってしまうことを始まる前から想像してつらくなる。旅行やピアノの発表会、友だちとのお出かけ、などなどの前日は大泣きして母を困らせていた。さすがにもう泣きはしないのだけど、未だにそういう予期不安ならぬ予期哀しさ(?)の傾向はあって。特に母が亡くなってからは、あらゆる出来事や人に対して終わりを強く意識するようになった。
大切だと思う人や時間、空間、あるいは思い出ができた時喜びを押し上げて大きな喪失感と悲壮感が私を襲う。手にした、ということはいつでも失いうるということで、大切だと思えば思うほど自分が小さく小さくなっていく気がする。ひとりの時間が好きなのは、たまに突然思い立って一人で旅に出る(最近はもっぱらお散歩)のは、私が私という存在を実感して私に対する愛を再確認するためなのかもしれないと思った。
すごく不思議なことを言うけれど、私は私自身に嫉妬するという感覚がある。自分より大切な人やものが自分にできて欲しくない、という自分に向けた独占欲。誰かを大切にしすぎると、自分の調子がたもてなくなる。そんな時は自分のために時間を使って、自分の好きなことをして、心身をいたわる。自分に愛を向けることがこんなにも大切なことだなんて最近になってやっと気づいた。大切な人にそうしたように、自分のために自分が喜ぶことをする、大切なものにそうしたように、自分にこまめに気を向け些細な変化に気づけるようにする。昔は自分を自分で愛するなんておかしい、自分も誰かを愛してその誰かに愛してもらうことこそが幸せなのだとずっと思ってきたけれど、本当は自分が自分に向ける愛が一番確かで一番大きいのだと今は思う。誰かにしてもらいたいこと、誰かとしたいこと、そういうことを自分ひとりで叶えてみる。ひとりでも大丈夫、楽しい、生きていけるという喜びほど支えになるものはないんじゃないか。
そして、大切ななにかを失う哀しさは今も拭えないけれど、それは存在を当たり前に思わないという良さでもあると思った。たしかに失ったものはもう戻ってこないし、あの人にはもう会えない。それでも失いきれないものもあるじゃんか、今でもそうして泣きたくなるくらいの輝きとして私の心に留まってくれているじゃないか、そう思うと哀しさを受け入れたい気持ちになってきた。何かを失うことはいつだって辛い。だけど別れを経験した人にしか得られないものはきっとある。かたちとして別れたとしても、記憶や幸せの名残りや満たされた感覚は残り続ける。私はそういうものとともに、哀しさも抱えて生きていきたい。ただ楽しく、ただ満たされ、ただただ永遠と続く生活なんてそれはそれで退屈だ。
失うこと、哀しいこと、辛いこと、虚しいこと。
幸せはそういうネガティヴな感情の中にも必ずある。他人の中に見出せる愛なら、きっと自分の中にもある。自分の愛し方を知って、いつかその愛で大切な誰かや何かを包み込むことができたら。
最近はずっとそんな事を考えている。
そんな私は今日も自分を甘やかすため、時給よりも高い可愛い可愛い靴下を買った。悩みはしたけど後悔はしていない。誰にも相談せず、自分で決めた。本当に可愛くて帰り道何度も袋から取り出しては眺めた。こういう時間が私を豊かにしてくれる。(少しご褒美が多すぎる気もするけれど)
私は私として生きる日々が楽しい。楽しくて仕方ない。そう思えているんだもの。また失っても出会ってもきっと大丈夫だ。
今夜は貰いたてほやほやなコーヒーを飲む。
何でもないけどしあわせなひとりの時間。