家族について
昨日、父方の祖母が亡くなったとの知らせを受けた。
といっても両親が幼い頃に離婚して母親に育てられた私にとって、父方の祖母は "おばあちゃん" と呼ぶことさえ少し躊躇うような、タメ口では話しづらいような、そんな隔たりのある存在だった。
最後に会ったのは3年前の母のお葬式の時。
その前も数年単位で会っていなかったから、交わした言葉はどこかぎこちなかった。
そんな祖母が亡くなったと聞いてから、私は想像以上に激しく動揺している。それは祖母との思い出や繋がりを思い出して寂しくなるといったような感情ではなく、亡くなってもなお実の家族としての繋がりが感じられないという悲しさ。家族が亡くなったのに、私は今日も普通に学校に通えたし、母が亡くなった時のようにずっと泣きっぱなしなんてことはなく、いつも通り授業を受けた。血縁上は家族であっても戸籍上の繋がりはないから、忌引にもならないし、冷たい言い方をしてしまうと数回会ったことのある赤の他人が亡くなったにすぎない。
だけどそれが今日はたまらなく悲しくなった。ずっと私の家族は母と母方の祖父母と伯母のみだと思って割り切ってたし、実際その通りだったのだけど、幼い頃はきっと沢山面倒を見てくれたであろう、実の祖母に対して思い出が特にないという事実が、人としてもほとんど知らなかったという事実がたまらなく悲しかった。ちゃんと悲しむことができなかった悔しさ。もしこれが母方の祖母だったとしたら、私は母の時のように激しく落ち込み取り乱し、しばらく悲しみに暮れて過ごしていたはずだった。
家族ってなんなんだろうな。血縁関係があるのに他人って寂しい。だけど血縁関係がなくても家族同然の付き合いの人もいる。結局は、1番大切なのは人との繋がりであって血縁ではない。そう分かっているけれど。
それにしても人の命ってあまりにも呆気ない。
母が亡くなって、お通夜や告別式が終わって、母という肉体が小さな小さな骨壷に収められてしまったのを見て、これが命の結末なのかと目で理解した。結局肉体も命も脆いしいつかは消えてしまう。血の繋がりだって、運命には勝てない。
だけど母という命が消えても、肉体がなくなって"会う"ことができなくなっても、家族という繋がりの中で共に暮らせなくなっても、母という存在は私にとって今なお大切なものとして残り続けている。未だに彼女との思い出の中で生きている、と言っても過言ではない。
だからこそ今回の祖母の死を受けて、私の母を繋いでいたものは血縁よりも強固な絆だったのだと気づかされた。
祖母とも、そんな絆を築き上げられていたら、家族として関わりを持てていたら、何か変わっていたのだろうか。そんな考えはいつまでも拭えないけれど、そんな中でも人生は淡々と続いていく。
世の中には沢山の異なる人間がいて、時には家族であっても友だちであっても"縁がなかった"という言葉がふさわしい存在だっている。家族だから仲良くしなければいけないなんてことはないし、友だちであっても一緒にあるメリットよりいないメリットの方が上回れば距離をおいたって友だちをやめたっていい訳で。私が祖母の死を当事者として感じられなかったからといって、それは誰が悪いわけでもないし、私は私なりに祖母の冥福を祈る気持ちが心の片隅にでもあるのだから、それで良いのだと思う。
人生は短いし、自分の世界は狭いのだから、縁がなかった人について嘆くよりも縁があった人を大切にする生き方をしたい。
母が亡くなってすぐ、メンタルがぐちゃぐちゃだった時に恋人のお母さんにもらった言葉が今でも私の行動の指針になっている。
"みんなお互い様なんよ。私が今たまたまあすかちゃんを少し支えてあげられてるのは、昔私も辛い時こうして支えてもらったことがあったから。その人に返すような気持ちであすかちゃんの力になれるように頑張ろうって、そういう気持ちもあるの。やから申し訳ないなんて思わんでいいし、いつかあすかちゃんに余裕があって困ってる人が現れた時に、この分をまた誰かに返す気持ちで接してあげたらそれでいいんよ。そうやって助け合いって続いていくんやから。"
祖母に何もできなかったという後悔や、家族として繋がりを持てなかったという悲しさは、繋がりを得ることができた人たちに向けてかたちを変えて返していきたいと思う。そうやって後悔を後悔のまま置いておくのではなく、思いやりの循環を生み出す原動力にできたら、回り回って祖母へ向けた恩返しとなるかもしれない。
そんなことを今夜はベッドの上でぐるぐると考えていた。