穴を掘ること、水を待つこと、そしてそれから、
「諸岡って穴を掘ってるみたいな進み方だよね」
と、友達にそんなことを言われたのは予備校時代、浪人生の時だ。
その頃わたしたちは藝大目指して毎日毎日、石膏像をデッサンしたり、水粘土で自分の頭部を作ったりしていたわけだけど、その受験に向かう姿勢、進み方が「穴を掘っているよう」だと言うわけだ。
どのあたりでそう思われたのかわからないけど、まあなんとなく、自分でも納得できた。
穴を掘ってるよね、というその言葉を今でも制作しながらよく思い出す。
あぁ、そうだよ、無事に大学に受かった後も、大学を卒業した今も、いまだにわたしは穴を掘っているよ。
大学一年の時、木彫実習で河童を彫った。
とはいえ、完成しなかったので彫った、とはあんまり言えないのだけども、作品のアイデアだけは気に入っていた。
河童というと、頭にお皿をのせた河童がよく想像されるスタンダードだと思うが、実はお皿がない河童というのもいる。お皿がない河童は、お皿がないかわりに頭頂部に凹みがあり、そこに水をためているのだ。
(当時のドローイング 右下メモ:ゆがんだ顔 頭頂部のへこんだ河童 左手は頭のくぼみを掘るようにかきむしっています。)
わたしが作ろうとしたのは、自らでその頭を掘ろうとしている河童だった。川の水を頭に流し混むのではなく、自分の頭を掻きむしるように掘って、掘って、そこから水が湧いてくるのを求めている。彼は、水脈を自らの中に求めているのだ。
木を彫るのが下手くそすぎて完成しなかったこの作品の講評の時、とある先生にこう聞かれた。
「これはネガティブなのかな、ポジティブなのかな。」
面白い質問だな、と思って、わたしはちょっと考えてこう答えた。
「頭を掘るのは痛いし辛いことだけど…水を求めて掘っているので、行為自体はポジティブだと思います。」
ポジティブというとなんだか、語感がポップすぎるけれど、前向きに物事を進めること自体は楽しいことばかりではない。何かを求めるという行為自体は前向きに見えるが、そのためには痛みを伴うことも多い。
まだまだ甘ちゃんだったわたしには、それは結局彫りきれなかった。
………………
「彫る」と、「掘る」
この2つの単語について考える。
発音は同じであり、行為としても似ているが、目的が違う。
「彫る」ことは形を求めておこなう行為だ。彫刻という言葉に見るように、「刻む」に近いものがある。
「掘る」ことは主に、穴を掘るというような、地面を掘っていくようなイメージが強い。また、何かを見つけるために掘る、ということもある。発掘のための行為。その場合、掘り出す、掘り起こす、というような言い方になる。
例えば、石で彫刻を作ることは、「彫る」ことであるだろう。
しかし、これまでわたしは形を求めて石を「彫って」きたんだろうか。
わたしは何かを発見するために、発掘するために石を「掘って」いなかったか。
わたしがしてきたのは「掘る」ことじゃなかっただろうか。
………………
大学院生の時、「水を待つ庭」という作品を作った。
これを見た私の叔母は「村上春樹みたい!」というコメントを残した。(ちなみに、叔母は「風の歌を聴け」からずっと村上春樹の著作を全て初版で購読しているという筋金入りの村上春樹オタクである…)
そういえば、この作品を作っていた前だか後だか忘れたが、あの頃わたしは「ねじまき鳥クロニクル」を読んでいたんだった、と、それを言われて思い出した。
あの物語のキーになっている主人公が潜る枯れ井戸が、わたしにとってこの水を"待つ"池だったのだろう。
この時、先の河童の木彫のことは忘れていたが、作った後で思い出して、なんだ、1年生の時からわたしは変わっていないじゃないか、と思った。
水がでてくるのを求めて掘り続けている。
いや、もっと言えば「諸岡って穴を掘ってるみたいだよね」と言われた予備校生のころから変わっていないんじゃないか。
「予感」もそうだったが、内側に内側に、彫っていきたくなるのは、やはりわたしにとって彫刻を「彫る」ことが「掘る」ことだからなのだろうか。
彫って、掘って、掘った先に、いつその水はやってくるんだろう。
いつか、この池が、あの哀れな河童の頭の穴が、水で満たされる時は来るんだろうか。
その池が水で満たされた時、わたしは一体、どうするつもりなんだろう。
………………
それから3年くらいたった今、
わたしはまた「水を待つ庭」の時と、同じような風景を作った。
今度は、水を待つためではない。
そこからついに、"掘り出す"ためにだ。
石も穴も大きくなって、わたしは穴の中に入りながら作業したりしていた。今までも経験がないわけではないが、自分が彫っている石の中に入りながら石を彫るというのは、ちょっと奇妙な感覚だ。
わたしがこの2年くらいやってきたことは、今までの道をもう一度辿ってみることだった気がする。それは、もう、予備校生の頃からなんてレベルのものではなく、もっともっと、うんと昔から。
体が弱くて、家で大人しくシルバニアファミリーで遊んでいた幼少期のころの記憶から。
自分の歩いてきた道がどう言う風につながって、どうしてここにいるのかを、確認するための作業をずっとしていた気がする。noteを描いたり、箱庭を作ったり、昔読んだ本を読み返したりしながら、わたしはその道をもう一度丁寧に丁寧に辿って確かめた。
その作業はこれからも続くんだろうし、だからこそやっと、わたしは自信を持って一歩前に踏み出せると思ったのだと思う。
大丈夫、わたしがやろうと思ったことは、ちゃんとつながっている。
あの河童が自分の頭を掻きむしり掘っていたのと、同じことをしていた気がする。過去を振り返ることは「後ろ向き」に見えるかもしれないが、実は前を向くために、必要な作業なのだ。
今からちょうど1年前にも、わたしは個展をしていた。
その時のわたしは今とは真逆で、完全に「迷子」だった。だから展示タイトルもそのまま「Where am I ?」というタイトルになった。(Where am I ? - Here (個展の話)
この時作ったHereという作品について、この時わたしはこう語っている。
「私が今まで彫ってきた石たち。その底面なんて、考えたこともなかったけれど、もしかしたらそれを裏返したそこに、わたしはいたのかもしれない。」
1年たって、今だからわたしはようやくわかる。
あの時わたしは、石の重みに押しつぶされていたのだ。
「石を彫る」ということにこだわりすぎて、その重さに自ら押しつぶされていたのだ。わたしは一体どこにいるんだろう、と必死になって探した結果、石の底を持ち上げたところにわたしはいたのだ。そこにいたのは、ぺしゃんこに、薄っぺらになった哀れなわたしだった。
だけどあそこで底を持ち上げて、ちゃんと発見してあげたからこそ、わたしはいまここにいるのかもしれない。
ようやく、今初めてその池は満たされた。
石の底から這い出たわたしは、今やっとそこから掘り起こせる。掘り起こす。
たいしたものはでてこないかもしれない、まあそれでも構わない。
それでもその先の一歩を踏んでみたいと思ったのだ。
石を、自分自身を掘ったその先に、そこから何かを拾い上げたその先に、わたしは何を組み上げるのか。
わたしはただそれを自分で見てみたかったのだ。
Dig up and Build
|日程
2020.3.1(sun〜3.22(sun) 12:00〜19:00 木曜休廊
【箱庭プロジェクト -小展示室】
個展「Dig up and Build」と合わせまして、小展示室では諸岡が主催している「箱庭プロジェクト」の紹介を行います。
期間中、箱庭に関連したイベントを行います。開催概要、詳細につきましては、作家サイト内、NEWSページでお知らせ致します。
https://moro-oka.jimdofree.com/news/
助成:東京藝大「I LOVE YOU」プロジェクト
|場所
ART TRACE Gallery
〒130-0021 東京都墨田区緑2-13-19 秋山ビル1F
https://www.gallery.arttrace.org
また空っぽになって、また水を求めて掘り、また迷子になるかもしれない。その繰り返しなのかもしれない。でも、繰り返しながらわたしは前に進むだろう。