五島列島のみち 〜九州自然歩道・五島エリア〜 (7/8)
12日目(野崎島)
野崎島へ
強い風が夜どおし小さなテントを揺らしていた。夜が明けると早々にテントを撤収し、蛤浜のキャンプ場を発って有川港へ向かう。風は少し落ち着いたものの、空は低い雲が覆っていてすっきりしない。
この日は有川から小値賀島ゆきの船に乗り、そこから野崎島に渡る。
船は有川港を出ると30分あまりで小値賀港に着く。下船すると、船着き場で船を待っていた一団のなかに見知った顔を見つけた。
「おっ、やっぱり来ましたね!」
と彼は嬉しそうに言った。奈良尾で別れたあのランニングシャツのウェブライターだった。彼もやはり野崎島を訪れて、その帰りだったのだ。
いろいろ話をしたかったが乗換えの時間に余裕がない。残念だが再会の挨拶も早々に先を急いだ。少なくとも野崎島での滞在がすばらしいものだったことだけは、彼の表情から充分に見てとることができた。
小値賀港のターミナルで野崎島への渡島の受付を済ませると、少し離れた笛吹という船着き場まで移動し、そこでまた別の船に乗る。小さなジェット船に揺られて、30分ほどで野崎島にたどり着く。
野崎島は南北約6.5km、東西約2kmの島である。小値賀町を構成する17の島の中にあっては比較的大きな島だ。溶結凝灰岩の地層が隆起した地形で、平地が少なく急峻な山地が多い。
かつて島には、仏教と神道を信仰する集落とカトリックを信仰するキリシタンの末裔らの集落が存在していた。昭和後期から平成にかけてそれらが廃村となり、いまはビジターセンターと宿泊施設があるだけで、定住している人間はいない。
島内は全体が西海国立公園の特別地区(1〜3種)に指定されている。現在は小値賀町から委託を受けた小値賀アイランドツーリズムという業者が入島者を管理し(この業者を通さないと渡島できない)、環境を守りながら島の自然を体験できるサービスを提供している。なお島内には九州自然歩道が、島を縦断するように設定されている。
また世界遺産である「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成遺産として、「野崎島の集落跡」が指定されている。
島内散策
一緒に渡島したのは5〜6人で、そのうち宿泊予定者は僕を含めて2名だった。上陸するとその場でスタッフからひととおりの説明を受け、その後は自由に散策することができる。
上陸した地点は島の中心部あたりで、野崎という集落の跡である。九州自然歩道のルートはそこから島の北端と南端にそれぞれ伸びているのだが、整備がされておらず危険なためガイド付きのツアーでないと立ち入りできないルールになっていた。ツアーの手配はしていない。集落跡の周りだけで散策を楽しむことにする。
船着き場のあたりには集落の名残が微かに残っている。小さな木造家屋の跡、崩れかかった石垣、それを飲み込むアコウ。集落の中心的存在だったという神職の住宅だけは保存されていて、中を見学することができる。
あとはただ、自然が広がっている。見渡すかぎりの自然景観である。人工物がほとんど視界に入らない。海岸線から山裾まで一面がまるでサバンナのような草原で、灌木がまばらに生えている。鹿の群れがあちこちで寛いでいる。
ところどころで赤い土肌が露出している。この島には約500頭の鹿が生息しているという。彼らが食べることによって草木の生育がある程度阻害されているようである。
トレイルを辿って北側の山に少しだけ入ってみた。島の北端にあるという沖ノ神嶋神社に続く道で、自然歩道に指定されている道である。あたりはすぐに照葉樹が茂るみごとな森林になった。
道はとてもはっきりしていて、人気の登山道のように歩きやすい。
(もう少し先まで進みたい)
という欲求を抑えて渋々引き返す。
今度は島の西側へ足を伸ばす。山腹に広がる、段々畑だったであろう草原の一画にレンガ造りの教会が建っている。旧野首教会という。
壮大な広がりを見せる空と草原のなかでカトリック教会だけが静かに佇むその景観は、まるでいつの間にかアイルランドの田舎にでも迷い込んだかのようである。
教会は修復が必要な状態ということで、内部の拝観は中止されていた。ここでも鹿たちがあたりで寛いでいる。
島の南へと続く歩道にも少し踏み入ってみた。島南端の舟森集落へ続く道である。こちらもすばらしい森だった。道も言われるほど荒れていない。
少し進んだところで、ここでも後ろ髪を引かれる思いで引き返した。
島内のいたるところで遭遇する鹿たち。彼らは目が合うと動きを止め、じっとこちらの目を見据え、こちらとの距離が一定以上縮まると踵を返して逃げてゆく。
まだ風化しきっていない、小さな子鹿の骸が転がっている。こういうものは人間の生活圏の中では見かけない。人間の社会では忌避されるものが、ここではごく自然に映る。
自然学塾村
教会のすぐ下、美しい砂浜の脇に、廃校になった小学校の校舎を改修した島唯一の宿泊施設がある。その名を野崎島自然学塾村という。
管理人はさっき船着き場で迎えてくれた人だった。年の頃は60前後だろうか。キャップを被り、無精髭を生やし、よく日焼けしたその顔は、年季の入ったアウトドアマンの魅力を充分に湛えている。この施設をほぼ1人で切り盛りしているという。トレッキングガイドもしているらしい。彼は島のことをよく知っていて、島の歴史や動植物について、聞けば何でも答えてくれた。
さっき野崎集落の近くを歩いていた時、黒い鳥が僕の足元を横切って茂みに消えた。よく見るカラスよりも少し細長くて、少し青っぽいように見えた。もしかしてカラスバトではなかったか、と思っていた。
そのことを聞いてみると、カラスバトはもっと人気のないところでないと見られないということだった。かなり希少で、しかも警戒心が強く、人の気配がするところで地面を走ったりはしないようだ。残念ながら違ったようである。
彼は小値賀島の生まれで、この島のガイド兼管理人をもう長らくやっていると言った。自分では名乗らないが、壁に沢山貼られている過去の訪問客たちからのメッセージ書きから、彼が「塾長」という肩書きだということがわかった。
「もう年だし腰も痛いしこの仕事もそろそろ潮時だ」
というようなことを、塾長は冗談交じりに話してくれた。口にはしなかったが、やりたくても手が回っていないことが沢山ありそうだ。
「じゃあ後継者を待ってるんですね」
と僕が言うと、まあそう簡単ではないわ、と言って笑っていた。
話をしているといつの間にか宵の口である。
学塾村には理科室を改修した厨房があって、そこで自炊をすることになっている。食材は持参だ。いつものように米を炊き、梅干しと味噌汁と煮干しを食べる。いつもの夕食である。
「それじゃ足らん」
と、塾長が魚の缶詰を2つ譲ってくれた。思いがけず豪華な晩餐となった。
真っ暗になった校庭に出ると、頭上には満天の星空が広がっていた。穏やかな波の音とにぎやかな虫の音が心地よく響いている。南の空でスピカが、純白の光を放って煌めいていた。
寝室は元教室で、畳が15枚敷いてある。ここに1人で寝る。この島に来てよかった、と思いながら眠りについた。
13日目(野崎島→有川)
さらば野崎島
夜明けとともに目を覚ました。この日は朝一の船で小値賀島へ渡り、そのまま乗り継いで有川へと戻る。そのあとは有川周辺を散策して、また蛤浜のキャンプ場に泊まる。
朝食をとってパッキングを済ませると、学塾村を発って野崎集落跡の船着き場へと歩く。荷物は塾長が島の唯一の自動車である軽トラで運んでくれた。予定時刻どおりに現れた船に乗り込む。塾長に礼と別れを言うと、
「また来んば。後継者待っちょるけん」
と言って、笑顔で見送ってくれた。
(また来なければなるまい)
と思いながら、小さくなってゆく島を船窓から眺めていた。
有川と捕鯨
有川は古く捕鯨で栄えた町だ。港のターミナルに「鯨賓館ミュージアム」という施設がある。当地の捕鯨に関する資料館である。その歴史や、盛期の漁の様子や道具などが見学できる。
「鯨一頭で七浦潤う」という言葉がある。鯨漁の盛況を求めて、かつては多くの漁師や商人たちが全国からこの地に集まっただろう。
鯨漁を取り巻く環境は大きく変わっている。日本は2018年にIWC(国際捕鯨団体)を脱退し、その翌年に自国の領海および排他的経済水域に限って商業捕鯨を再開している。この国の捕鯨はまたかつてのような存在感を取り戻すことがあるだろうか。
近くの食堂で鯨肉を出していたので食べてみた。じつは過去に食べた記憶がない。噛むと牛肉に似た香りと旨みが、少し遅れてやってくる。決して悪くない。いや美味い。
この日はもう歩く予定もなく、あとはただのんびりと過ごした。
キャンプ場で日が暮れてゆくのをぼんやりと眺める。五島の旅も残りあと1日である。
つづく