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五島列島のみち 〜九州自然歩道・五島エリア〜 (8/8)
14日目(頭ヶ島→有川)
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(実際は頭ヶ島スタート・有川ゴールとした)
※ルート編集アプリ「Trail Note」にて筆者が作成
頭ヶ島
蛤浜のキャンプ場で朝を迎えた。この日はまずバスに乗って頭ヶ島まで行き、そこから海岸沿いを歩いて有川まで戻ってくる予定だ。五島の九州自然歩道の旅はこれで終りとなる。
頭ヶ島は中通島の東端の北に浮かぶ小さな島で、中通島とは橋で繋がっている。長らく病人の療養にしか使われない未開地だった(死者の埋葬地だったという説もある)が、江戸の末期、前田儀太夫という人物が中心となってこれを開拓し、集落を形成したという。この時儀太夫に伴われたのは外海から移住してきたキリシタンたちだった。この集落は例の世界遺産の構成遺産の1つになっている。
頭ヶ島のほぼ中心にカトリック教会がある。頭ヶ島天主堂という。1919年の建造だという。やはり鉄川与助氏の設計・施工によるもので、材は砂岩である。
この島の周囲では砂岩がよく採れたらしい。建築費を抑える為にこの地で切り出した砂岩を用いたのだという。地場産の材を用いた建造物は風景によく馴染んで美しい。
天主堂の北側には墓地が広がっていて、墓碑のあいだで鮮やかなピンク色をしたマツバギクの花が咲いている。
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旅の終わり
バスで来た道を徒歩で戻ってゆく。海沿いのわずかな平地にぽつりぽつりと集落が作られている。
人里の舗装された車道を歩く。島の中心に向かうにつれ、景観の中の自然は次第に人工物に置き換わってゆく。旅をとおして感じてきた高揚感はもうなかった。
この地に魅力がないということではない。旅に慣れて新鮮味を感じなくなっているのだ。あるいは自然を歩くということに関して言えば、野崎島をあとにしたところで僕の旅は終わっていたのかもしれない。
蛤浜のキャンプ場で3度目の朝を迎えた。前日にスーパーで買ったかんころ餅を食べて、テントを撤収して有川港へ向かう。風が強く、空は雲が覆っている。
長崎へ渡る船に乗る。
長いようで短い旅だった。五島の自然、歴史、文化、人情、といったものに、少しずつながらも触れることができた。
民俗学者の宮本常一氏は五島の島々を幾度となく訪れている。縁があったということもあろうが、それだけの魅力がこの地にあったということだろう。彼は著書「私の日本地図⑤ 五島列島(未来社)」のあとがきでこのように述べている。
ところが、二回、三回と島へわたってみると、設備はたしかに近代化し、一見、島はよくなっているようだが、一つひとつをこまかに見ると、心をさびしくさせるものが少なくない。つまり、いれものはりっぱになったが、中味がまえのように生きいきしなくなっている。そして島をすてるものも多い。これは五島だけではなく、日本の離島全体について言えるのだが、中味がなぜ生気あふれるものでなくなりつつあるかを考えてみる必要がある。中味の生気を恢復する手段として観光を考える向きも多いが、それがかえって島民を島から追い出すことにもなっている。どうすれば充実した中味を持つことができるか、それがこれからの島のいちばん大きな課題である。
昭和43年の記述である。僕が見た五島は、宮本氏の目に写ったものと比べてどうだっただろうか。あるいは五島だけではない。もし宮本氏が今の日本を見たとしたら、はたしてどんなことを思うだろう。
旅をする前よりもかえって知りたいことが増えたような気がする。五島は魅力的で、奥深い。またいつか訪れようと思う。
おわり