安部公房展を見に行く
金曜に以前の記事で書いていた安部公房展を見に行った。
場所は県立神奈川近代文学館。横浜の港の見える丘公園内 にあるが、市街地から遠ざかる方向にあるし、坂だらけのためアクセスがいいとは言えない。片道1時間半以上は掛かった。
展示の内容は、彼の一生の年表順に作品、私生活、(文学者同士の)交流等をなぞっていくものであった。
物としては何カ国語にも訳された本、小説や戯曲の元原稿、雑誌、演劇のポスター、知己に宛てた書簡。500点ほどあったとのこと。
感想は以下の順番で書かせていただくことにする。
1.本展示関係者へのコメント
2.生原稿を楽しむ
3.データ原稿について
1.本展示関係者へのコメント
・優れた解説文に満足
どなたが書かれたのか知らないが、上記ウェブサイトの安部公房の作品評は短い言葉で端的に彼の作品の特徴を表している。
この3行の説明で思い当たる作品が沢山出てくるので、的を射た説明だと思う。これだけでなく、作品そのものの解説でも日本語が上手く、さすが文学館の展示と思わされた。
この展示では基本的に写真撮影が禁止だったけれど、解説文を撮影したかったものもある。個人的にはあまり経験がないことだった。
・安部公房という人物に目線が向いた展示
本展示では安部公房を取り巻く人物という部分にも結構なスペースを割いていた。人物の話が多いということは、安部公房の作品よりも安部公房という人の生きざまを丁寧になぞった展示であったと言える。
取り上げられている作品は、メジャーな作品と、彼のキャリアの節目となるような作品が取り上げられていたが、自分が”この作品についての展示は欲しい”という思いが強かったのに反して取り上げられていない作品が多かったためか、物足りなさを感じもした。
個人的には安部公房が今語られる価値というのは作品の方にあると思っているので、もっと作品に強く目線が向いた展示を見たかったように思う。具体的には、展示会のタイトルに”21世紀文学の基軸”という言い回しをするのであれば、彼の作品の普遍性(今になって時代が追いついたと言わしめる要素)がどんなところにあるかというものを重点的に掘り下げた物を見たかった。
2.生原稿を楽しむ
本人の肉筆で書かれた原稿用紙がたくさん展示してある。
その文章は、後から表現を直すために一定のカタマリ単位で修正されているものは少なくない一方で、レトリックレベルで修正が入っているものはほとんどない。
こんな気の利いた言い回しを書き直しせずに書いているのか…という驚きは大きく、原稿用紙を見るのは楽しい体験だった。
いや、レトリックだけじゃない。文章の作り方が変わってしまった。
たとえば自分は今この記事を頭から終わりまで構成を練って、その後に順番に書いているわけではなく、思いついたことを適当に書いていった後にそれらを再統合して内容のカタマリごとに章立てする、という作業を少なからず行っている。昔は原稿用紙に頭から書いていくという作文はしたけれど、執筆ツールが電子化してからは、もう当時のやり方はできない。
3.データの原稿について
最後の方では手書きの原稿がなくなりワープロで書かれそれを印刷したものが展示されてはいるが…やはり手書きの原稿に比べると見た目上の個性が一つ消えるため相当に味気ない。
8インチのフロッピーディスクのような骨董品が出てくるのは面白いが、一方で"安部公房の残したモノ"として考えると元原稿や書簡に比べるとどうにも個性が弱く感じてしまうのは仕方ないだろうか。
ところで今は安部公房という20世紀後半に活躍された作家を扱っているが、これからの文学者というものはこういった原稿用紙や書簡のようなものが減っていき、恐らくは今回展示したようなものが殆ど形には残らないだろう。
作家の展示というとこんなものと先ほどは書いたものの、以降はどのような形で展示を行う(=後世に残す)ことになるだろうか、ということを考えさせられた。
普段の(子育てをしている)生活とあまりに隔たりがあるが、
考えさせられることが多く、トータルでは非常に有益な展示だった。