生活を読む。
最近、人生の中に隙間を見つけては読書をするようにしている。元々私は本が苦手な方だったので、今の自分を「えらい!」と褒めて抱きしめたいくらいだ。
電車の移動中・会社の昼休憩・電波の悪い定食屋の中などなど、いわゆる「小説チャンス!」なるものを見つけては読みたい!とおもえるくらいには小説が好きになった自分に驚いている。
noteには多くの読書家がいる中で烏滸がましい話なのだが、今回はそんな自分なりの小説の楽しみ方を話すことができればなと思う。
きっかけは、村上春樹の「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」という作品を学生時代ぶりに最近ふと読み返したところから。
1回目に読んだときに比べてはるかに読みやすくなっているという漠然とした手応えがあり、いくつかの村上春樹作品を漁り、他の有名作家の作品に手を出してみたりしたところから始まった。
前回より読みやすくなった理由は、おそらく本の楽しみ方が変わったのだと思う。
学生時代は小説は美しい文学表現に触れることで、自分の言葉に深みを持たせる為の探求でしかなかった。
もちろん、今もそのような楽しみ方をしていないわけではないが、今はもう一つ、「人々の生活を知る」という楽しみ方をしている。これがいくらか私の読書の時間を華やかなものにしてくれたのだと思っている。
物語の主人公が目にした物・感情・出来事をまるで寄生虫のような立ち位置で共感することができる。これらの生活の一部を自分の体内に取り入れるという行為に何かしらの娯楽性を感じることができるようになったことが、私が小説を読み耽るためのモチベーションにきっとつながっているのだろう。
特に小説は、その生活の部分部分に美学を持っている気がする。
ターミナル駅のベンチで人々の流れを眺めたり、25mプールを意味もなく永遠と泳ぎ続けたり、酷く行間のありそうな喋り方をしてみたり。
受け取り方は色々あれど、さまざまな部分に美学が転がっている。
そんな生活美学を、小説という作品から、必要な部分だけ摂取して真似事をする。これがとても気持ちが良い。
冒頭で自分自身のことを褒めたいと言ったが、これは嘘。
あくまで小説は娯楽で、ゲームやピラティス、海外旅行などと何ら変わりない。人生を豊かにするためのものなのだ。
でもそんな私も、カフェに行ったら窓際からMacbookのリンゴマークみたいに文庫本の表紙を見せびらかしてしまうのだ。俺の美しい生活を見ろって。
情けない。自分はどこまで行ってもちっさい存在だ。
でも美学ってさ、見せびらかさなきゃ意味ないじゃんか。