わたしという人間を、恋愛から見る
先日、知人と会う予定があって、その時に恋愛の話をした。
わたしはクワロマンティックを自認していて、恋愛という感情を必要としていないし、そもそも恋愛感情がわからないのだけれど、それを知っている人はいない。
誰にも話していないから。
世間一般的に「恋愛感情がわからない」という感覚は普遍ではないのだろうと思う。
みんなどんな恋愛をしてきて、今しているのか、その人に聞いてみたら、
「恋愛してみたらいいんじゃないですか?」
「少しだけ生活が豊かになりますよ、私はちょっと豊かになりました」
と返事が返ってきた。
気持ちはわからなくもない。
知りたいと思うなら自分でやってみるのが何事もいちばん手っ取り早い。
でもそれができていたら苦労しない。
相手に悪気はないし相手は悪くないこともわかってはいるのだけれど、わたしの心の中でなにかがぐにゃりと形を変えた感覚があった。
この人の知らないところでわたしは生きているんだなぁと思って、でも別に知ってほしいわけでもないし、どうにかしたいことがある訳でもないし、わたしはこの先に何を求めているんだろうと思ったら余計にわからなくなった。
みんなが当たり前のように、複数の人間関係の中からたった1人の人間に対して抱いた感情を恋愛とラベリングできているのに対して、わたしは恋愛というラベルを持ち合わせていない。
男として見ているか、女として見られているか
とか、そういうことではなくて、「わたし」と「あなた」という2人の人間の関係だと思っている。
だから、わたしがあなたに抱いている感情に名前はつけられないし、つけるとしたら「わたし→あなた」という思いの方向性を表すことしかできない。
恋愛か友情か、とかじゃなくて、「あなた」という人間が「好き」だとしか言いようがない。
他人との関係につける名前が違うだけなのに、こんなにも分断されている気持ちになるのはなぜだろう。
わたしが勝手に分断されていると感じる何かを抱えているのだろうか。
まあこういう感覚を持っていることを伝えていない時点でむつかしいことはいつ生じてもおかしくなかったとは思うのだけれど、
だけど、
社会全体において異性愛が当たり前で、恋愛感情を抱くことが前提とされていることに息苦しさを感じる。
***
自分自身のセクシャリティについて自認したのは、大学の講義がきっかけだった。
その授業ではLGBTQのそれぞれの言葉について触れられていて、自分の知らない価値観や生き方にとても関心のあったわたしはその言葉をすぐに調べた。
はじまりは、今まで信じられてきたものと違うだけで誰かの存在や思いが否定されることへの抵抗から、性的マイノリティについて興味を抱いて調べるようになった(ような気がする、正直に言うと明確ではない。けれど、抵抗は当時から今もずっと感じている)。
調べていくとLとGとBとTとQだけでは到底表し切れないくらい、セクシャリティは多様であり、また性的指向とは別に恋愛指向があることもわかった。
インターネットでたくさんの情報にアクセスできることは本当に心強くて頼もしくて、その中で出会った「クワロマンティック」という名前にわたしは共感した。
この言葉に出会うためにたくさん調べてきたのかもしれない、本気でそう思った。
わたしの抱いている気持ちに、生き方に、名前があったことに安心した。
名前をつけたいわけではなかったけれど、名前があるということは同じように感じて生きている(生きてきた)人がいるということだと思うから。
***
最初の人との話に戻るけれど、
相手の価値観をわたしが変えることはできなくて、
お互い別に悪かったわけじゃないことは重々承知の上で、
理解してほしいと思っていたわけでもなくて、
ただただ、
ちょびっと信じていた人の世界に、わたしのたいせつにしていることは存在しないのだと思い知って悲しかったのだと思う。
そして、わたしはあなたの抱える恋愛的感情がどういったものなのかを知りたかった。
それは、あなたという人間を知りたいという気持ちでもあった。
それをはぐらかされたみたいで、そのことにも傷ついたのだと、冷静に振り返った今はそう思う。
***
いつか、誰かにこの生き方の話をする日が来るだろうか。
するとしたら、たぶん初めてはあの人だろうなぁという相手はいる。
別に言わなくてもいいし、言ってもいい。
わたしがわたしを尊重して生きられていたら、今はどちらでもいい。
わざわざ言わないといけない社会では、あってほしくないとは思う。
それはどんな性的指向や恋愛指向だったとしても。
わたしは今、自分のことをクワロマンティックだと自認しているけれど、もしかしたらそれが変わる日が来るかもしれない。
そして、同じクワロマンティックを自認している人とわたしの自認とでは、ちょびっとずつ感じていることが違うかもしれない。
それもまた、わたしが生きている証拠だし、わたしと誰かがまったく別の人間として存在している証拠であると思う。
正解なんてものはどこにもなくて、ただわたしがわたしであるということしかわたしにはわからない。
でも、わたしがわたしであるということをわたしは知っている。
ただそれだけで、充分に生きていける気がしている。
そう信じている。
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