見出し画像

「あけましておめでとう」なのですが、改めて「いじめ」について

2022年あけましておめでとうございます!って、もう既に本日は成人式!
早くこのnoteでも新年の挨拶をしなければと思いながら、今日になってしまいました・・・。
実は今年から、法律上の成人年齢が20歳から18歳に変わるらしいですね。しかし、お酒やたばこ、ギャンブル等の嗜好品については、20歳からというのは変わらないそうで・・・今更時効だとは思いますが、お酒もたばこも20歳になる前に始めていたボクとしては、「なんじゃそれ?」とは思いますが・・・そんな若い頃のお酒やたばこの失敗談議も書きたいところですが、多少なりともコンプライアンス違反なことを書いたりすると、どこで炎上するかわからない世の中ですね。

年始の挨拶がてら近況を書きますと、年末に、SUPER DOMMUNE 「小山田圭吾氏と出来事の真相」を拝見しました。

この配信には、お世話になっている常盤響さんもDJされていらっしゃいます。この件については既にnoteに書いているので、再掲させていただきます。

SUPER DOMMUNE 「小山田圭吾氏と出来事の真相」を拝聴して、正に1994年~1995年、高校生でリアルタイムで「ロッキング・オン・ジャパン」や「クイック・ジャパン」に接していたボクとしては、真に受けていた内容が、如何に「露悪的」な信憑性の薄い、雑誌の倫理観に欠けたヒドイ記事内容だったか、が、よーくわかりました。

ボクが小山田氏について書いたnoteを読んだ友人からは、「一緒に責任を取る」ってどうやって取るんだよ!軽々しく書くんじゃない!と怒られましたが、ボクとしては改めて、小山田氏の復帰を望みます。
特に、NHKEテレの「デザインあ」は、素晴らしい番組だったので、このままNHKの中で放送禁止番組となって眠ってしまうのは、もったいないと思うのですが・・・視聴者からのクレームを最も恐れているNHKですが、映像素材を一番大切にしてくれるのもNHKだと思っておりますので、何とかならないものかなぁ・・・。

しかし、ボク自身、「いじめを体験した者」として、「いじめ」に対する社会の論点への、釈然としないわだかまりと、「渋谷系」に対する思い出に暗い影が残ったのも事実で・・・。

「いじめ」に関して申し上げると、何度でも書きますが、学校であれ、軍隊であれ、市民であれ、どんな優秀な人間を集めようとも、人間の集団を形成させたとき、「いじめ」は、ほぼ必ず発生する。

さらに、年末に起こった、愛知県の同級生刺殺事件などを見て思うのは、

集団社会に存在する「いじめ」という現象を、全て「いじめ」で一括りに語ることも、疑問に思う。
いや、何も、「いじめ」と言わず、「傷害罪」だ!「犯罪」だ!・・・と、将来もある子供たちの、本人たちは悪意なく行った言動に対して、全て犯罪者扱いして、ことを荒立てようと言いたいのではない。

自分の子供を見ていても思うのだが、人間は本能的に、同じもの≒「仲間」と、異なるもの≒「仲間外れ」を意識するようにできている。
その「異なるもの」に対して、「間違っている」と、自分の正当性を主張して、上から目線で指摘する、相手に対して「マウント」を取ろうとすることから、いじめは始まるのではなかろうかと思います。

かといって、全ての「異なるもの」を意識しないようにするのもなかなか難しいとは思いますが・・・
その辺りに関しても、海外在住の視点から、野本響子さんがnoteで記事にしていらっしゃいますので、引用させていただきます。

「いじめ」の根は本当に些細なもの、他愛ないことも多いと思います。
実は、ボクも今、自分の娘二人から、「お父さん」という呼び方が「とさか」というあだ名?で呼ばれるようになって、もちろん本人たちは、親しみを込めて、悪気無く呼び始めたのですが、そんな子供同士の「あだ名」からも、いじめの根に繋がるとも言えなくもないのかな、と思います。

さらに申し上げると、ボクが幼少時から馴染んできた、吉本興業を中心とする関西お笑い文化圏の「ボケ」と「ツッコミ」。一部の人が指摘していますが、ダウンタウン松本人志氏のお笑いは、「いじめ」ではないのか?

ボクとしては、正直「あだ名」も、「ツッコミ」も、「いじめ」に繋がるものだと思います。
けれども、「あだ名」をつけることも、ボケに対する「ツッコミ」も、「全て無くしてしまえばよい」という単純なものではありません。

何度も申し上げるが、「いじめ」を許すことはできないけれども、「いじめを無くそう」という単純なスローガンのもとで、「あだ名」も「ツッコミ」も全て「悪」!ダメ!と捉えるような思考停止状態では、その「悪」と捉える思考停止状態こそ更なる「いじめ」に繋がる、悪循環を生んでしまうのではないでしょうか。

「いじめを無くそう」ではなく、「違いを認めよう」とか、「マウントを取らない(上から目線で見下さない)」、「人が嫌がっていることを止めよう」という、言葉としては単純ながら、人間に本能的に備わっている複雑な人間関係を、ケースバイケースで仔細に解きほぐしていくことが求められるのです。

もちろんそれは、教育現場だけに負担を求めてはいけないと思います。みんな、全員が、本当に当事者意識を持たないといけません。
「多様性が認められる社会」と、お題目のように語られる昨今ですが、ボクは「いじめ」について、経験者として考えていきたいと思います。

年始から、少し重い話題になってしまいました。本日はこの辺で。

いいなと思ったら応援しよう!