映画「パーフェクトワールド」から阪神淡路大震災までのボク
1995年1月17日の阪神淡路大震災から27年の年月が経った。
ボクが住んでいたのは兵庫県の隣、岡山県だったので、それほど大きな被害は出なかったのだが、それでも初めて体験する大きな揺れに恐怖を感じた。
改めて甚大な被害を心に刻むとともに、たくさんの犠牲者のみなさまを悼み、お祈り申し上げる。
話は、阪神淡路大震災の約1年前、1994年の年始に遡る。
ボクはちょうど、中学校の卒業が迫っていた。年末にもnoteに書いたが、
ボクは、中学2年の時に、ある女の子に激しい恋に落ちて失恋した後、ゲーテの「若きウェルテルの悩み」を読み、ショウペンハウエルの「自殺について」を読み、武者小路実篤の「友情」を読み、中島みゆきの歌を聴きまくり、さらには、鈴木祐美子さんのマンガ「うめモモさくら」をはじめとする少女マンガ(主に恋愛もの)を読みまくったりして、今につながる、ドイツロマン派的、無限の憧憬を持った、恋愛依存症的体質に変貌しようとしていた。
もちろん、断っておくが、ボクはイケメンではないし、一方的に女の子に恋焦がれるだけで、一切、女の子からの「モテ期」など経験しないまま今に至るのだが。
中学の卒業を目前にして、ボクは失恋の痛みを引きずりながら、また新たな女の子に恋をしていた。仮にEさんと呼ぼう。そして、その頃、ボクは、イケメンで、バトミントン部で運動神経もよく、カラオケでB'zを歌うと無茶苦茶上手い、「テルくん」という友人とよくつるんでいたのだが、ボクの好きなEさんの親友Iさんが、そのテルくんのことが大好きだった。
話を整理しておこう。
・女の子:EさんとIさんは友達。
・男の子:ボクとテルくんは友達。
・ボクはEさんのことが好き。
・Iさんはテルくんのことが好き。
・テルくんはIさんのことを何とも思っていない。
・Eさんは、ボクのことを何とも思っていない。
その中で、何故か、ボクとIさんが共謀して、ボクとテルくん、Iさん、Eさんの4人で、中学校最後の思い出に!?ダブルデートで映画を観に行こうということになった。。。
そして、選ばれた映画が、ケヴィン・コスナー主演、クリント・イーストウッド監督の「パーフェクトワールド」であった。
ボクが好きだったEさんは、吹奏楽部でフルートを吹いている、メガネをかけた物静かな、黒髪の、お嬢様タイプの女の子であった(基本的に、今のうちの嫁様も含め、一貫してそういうタイプが好きなんだけれども・・・)。
そのダブルデートの当日、岡山人の定番、岡山駅前ピーコック噴水の前で待ち合わせをしていると、上品で暖かそうなふわふわの白いダッフルコートを着たEさんが遠くに見えて、ボクはその瞬間からガッチガチに緊張していた。
初めて彼女の私服姿を見て、緊張すると同時に、非常に感激したことを覚えている。
ボクは、無茶苦茶緊張していたが、それを悟られないよう、何故かお互いよそよそしく挨拶して、ボクとテルくん、IさんとEさん、それぞれ別々に歩いて映画館に向かった。。。
ボクは、この頃には、親や従兄の影響もあり、映画館やビデオレンタル、テレビ放送などで、ハリウッド映画をかなり多く観るようになっていて、その時に観に行く映画を「パーフェクトワールド」に選定したのも、ボクだった。
ケヴィン・コスナーは、前作となるボディーガードが大ヒットし、誰もが憧れる、当時の超人気役者であった。クリント・イーストウッドといえば、ボクの中では、TV放送で繰り返し見た「ダーティーハリー」シリーズのイメージがすりこまれていて、この「パーフェクトワールド」では監督であり、心優しい警察署長として出演もしていたが、ボクとしてはマグナム44をぶっ放すクリント・イーストウッドが好きである。
「パーフェクト・ワールド」は典型的な「泣ける」映画で、最後のシーンで瀕死の状態のケヴィン・コスナーの意識が薄れていく中、心通じた少年フィリップの乗るヘリコプターの旋回する音が遠くなっていく場面で、ボクは涙を流していた。
ハリウッド映画でボクが最初に泣いたのは「E.T.」だったと思う。
映画を見終わった後、中学生としては少し背伸びした気分で、岡山駅前の地下街にある喫茶店に入り、たわいなくお茶をしたボクら4人であったが、中学生当時のボクは、そんな気の利いた面白い会話をすることもできず(今でも女の子と気の利いた面白い会話なんてできないのだが)ただただ、独りよがりに映画の余韻に浸って、「いやぁ、感動した!いやぁ、感動した!」と繰り返すボクのことを、Eさんは、レモネードを飲みながら、ポカンとあっけにとられて見ていた。
その後、もちろん、ボクとEさんはそれ以上の進展は無かった。実は、テルくんとIさんは、その後も密かにデートを繰り返したとか何とか・・・という噂である。。。
そして、中学校の卒業式の日、ボクは女の子が誰も欲しがらない(欲しがるわけがない)ボクの学生服の第二ボタンを、卒業式の後、帰りかけたEさんのナップザックに無理やり放り込むという暴挙に出て、Eさんに呆れられてそのまま卒業していったのだった。
それからボクらは高校生になり、テルくん、Iさんとは別の高校になったのだが、ボクとEさんは同じ高校になった。
正直なところ、高校入学以降、ボクのEさんへの気持ちがいつまで残っていたのか、記憶がおぼろげになってしまう。。。
高校に入学した環境の変化や、中学卒業と前後して、パンク、ヒップホップ、テクノをはじめとするクラブミュージックへの傾倒など、音楽的趣味の変化なども相まって、実は中学時代仲の良かったテルくんとも、その後全く連絡を交わさなくなってしまったのは、今思うと自分の薄情さを悔悛している。。。
しかし、高校1年だった1995年年始の年賀状をEさんに送った。
1995年1月16日、既に冬休みも終わって、3学期も始まっていたが、ボクはEさんに送った年賀状の返信が無かったことを悶々と悩んでいた。
実際のところ、高校入学後、Eさんとはクラスも違っていて言葉を交わすことも少なくなっていた。
個人情報に厳しくなった今日では消滅したが、その当時は標準的に配布されていた学年全員の住所録を元に、一方的に送り付けた年賀状であった。
実はその当時、ボクは、Eさんだけでなく、自分で勝手に水彩画を描いた年賀状を、住所録を元に大量に女の子に送り付けるという「年賀状テロ」とも言うべき暴挙を行って、女の子から返信をもらって自己満足していたのだが。。。
しかし、中学校時代と比較して、気持ちは薄れてはいたが、初めてのダブルデート、初めての映画デートをした、Eさんから、年賀状の返信が来なかったことは、ボクとしては非常にショックだった。
1月16日になるまで、諦め切れず、毎日郵便受けを見てはため息をつく毎日だった。
その日も返信が来ず、落胆して、ふて寝しようとした頃、うちの父親は、どうもその日、お酒を飲んで帰ってきたらしく、我が家で父親が飲んで帰ってきたときの通例となっていたのだが、階下で父親と母親が大声でケンカする声が聞こえてきた。いつもはそのまま寝てしまうボクだったが、その日は、Eさんからの年賀状の返信が来ないことへの苛立ちが爆発してしまい、
「うるせー!!!!×××××××××××」
と、親にしこたま怒鳴った。
結局その日は、家中険悪な雰囲気になり、ボクは涙を拭きながら、布団にもぐった。
1995年(平成7年)1月17日5時46分。
ボクは、大きな揺れで目を覚ました。咄嗟のことに、ボクはベッドの上に座って、ただ、棚の上に置いたものが落ちるのを眺めていた。
「地震だ!!」
階下から父の声が聞こえた。幸いにも、家は棚が倒れたりせず、みんな無事だった。
テレビをつけたが、地震速報を報じていたものの、まだ日の出前の時間であり、真っ暗な神戸や大阪の街が映るだけだった。
その後、震源に近い神戸の惨状を目の当たりにすることになる。
その後、いつの間にか親とのケンカも忘れていたし、年賀状のことも忘れてしまった。
何日か経って、Eさんから犬の写真の絵葉書が送られてきた。
今ボクは、地震速報を伝える業務に、わずかながら携わっている。
忘れない。1995年1月17日。