ひまコレ例題A:世界線を渡る現代劇「世界線旅行」(仮題)
マジカル・パンチライン清水ひまわりの妄想コレクション~ひまコレ~#②「ひまわりの3つの物語」を受けて書いた、例題A:世界線を渡る現代劇「世界線旅行」(仮題)の冒頭部分です。原稿用紙10枚程度。こんなイメージかな、と試しに書いただけのものなので、続きはありませんw よければお楽しみください。
「世界線旅行(仮)」
サクッ、サクッという林檎を切る音で、少しずつ目が覚めていく。秋もすっかり深く、台所の外はほのかに明るくなったばかりだ。耳を澄ませば、ヒヨドリの鳴く声が聞こえる。風でカタカタと窓が揺れる。
林檎は、秋から冬にかけてが食べごろだ。食べる物には特段頓着しない質だが、毎日食べていると、自然、味のちがいは分かる。夏の林檎はぱさぱさする。冬の林檎は瑞々しい。口にするまでもなく、こうして包丁で切っているだけでそれは分かる。同じ果物屋で買った林檎でも、ひとつひとつ味はちがう。
――今日の林檎は当たりだよ。
そう声をかけても、答えてくれる相手は特にいない。いや、返事はくれないが、味わってくれる存在はいる。僕は、トカゲのサンシロウが暮らすケージに、いつものごとく剥いた林檎の皮を入れる。僕と同じように太陽と同じリズムで暮らすサンシロウは、ごそごそと起き出してきて林檎の皮を齧る。美味いだろう? そう言葉を掛けても、特に返事はない。
ライトグリーンの皿に、切って皮を剥いた林檎を並べる。ミルクを一杯入れて、食卓に置く。それで朝食は事足りる。テレビは付けないし音楽も流さない。築何年になるかも分からないオンボロ一軒家は、周りの音がよく聞こえる。風の音、鳥の声、ときどき車の音。そういう音と自らの咀嚼音だけが朝食のBGMだ。
今日は天気がいいので、午前中に洗濯をしてしまおう。ついでに庭の大根に水遣りも。林檎はあと一つしかないが、別に買い物は明日で構わない。掃除は昨日やった。二日にいっぺんと決めている。午前中のうちにはデッサンを仕上げられそうだ。午後には彩色に入れるだろう。
二年前までは、美術教師をしていた。だが、決まった時間に毎日出勤するのが耐えられなくて、辞めた。教えた生徒の名前も同僚の顔もひとつも思い出せない。今は一人、自分のペースで暮らしている。父のころからの付き合いの画廊に何枚か絵を置いてもらっていて、ときどき売れる。収入はそれだけだ。父が残してくれたアトリエ兼自宅があるから、家賃はかからない。わずかながら残してくれた貯金もある。だが、今のペースなら三年後にはそれも底をつくだろう。そこから先のことはなにも考えていない。
自分はこの世に存在する意味があるのかな。ときどきそんなことを考える。自分はもしかしたら幽霊じゃないか、とも。画廊から「絵が売れましたよ」と連絡が来たときだけ、自分はちゃんとこの世に繋がっているらしい、と実感する。
皿とコップを台所の流しに置いた。軽く伸びをする。そのとき急に、がらん、という大きな音が庭のほうからした。いったいなにがあったのだろう。
台所から居間を抜けた先が裏庭だ。音はそちらから聞こえてきた。がらがらとベランダの引き戸を開ける。
昨日干して、取りこむのを忘れていたシーツが、庭の奥の塀のところに丸まって落ちていた。おおかた風でシーツが飛び、物干し竿が音を立てたのだろう。
秋の朝は、部屋着では少々冷える。サンダルを履き、土の匂いのする庭に下りた。それにしても、妙だな。洗濯挟みで挟んでいたはずのシーツが、風が吹いたぐらいで飛ぶなんて。そして今、やっぱり風が吹いているのに、シーツが丸まったままなんて。
シーツはすっかり、土で汚れている。もう一度洗濯しなおしだな、とため息を吐きつつ、丸まったシーツをくるくると巻き取っていく。くるくる、くるくると。
「――ハロー」
丸まったシーツの中から出てきたのは、パジャマを着た小学生ぐらいの女の子だった。
お腹がすいた。ハロー、の次に彼女はそう言い放った。日本人であってくれてよかった、と安堵する。
林檎でいいか、と尋ねたが、それじゃ足りない、と彼女は答える。さて、冷蔵庫になにがあったっけ。かろうじて賞味期限の切れていない卵があったので、ベーコンと一緒に焼く。即席のコーンスープも一食だけ残っていた。お湯で溶かして出してやる。それと、林檎。明日の分がなくなってしまった。今日のうちに買い物に行かないと。
女の子は、意外に礼儀正しく「いただきます」と手を合わせてから、ベーコンエッグに手を伸ばした。「いただきます」が言えるなら「お邪魔します」も言ってほしかったものだ。だが彼女は、いったいどこから来たのだろう? 玄関の戸締りはきちんとしている。塀は、彼女が乗り越えられるような高さではない。どうやって忍び込んだのだろうか。しかも、パジャマ姿で。
「――ねえ、君。名前はなんて言うの」
あまり好きではないのか、苦い顔をして牛乳を飲み干す女の子に、僕は問う。小学生ぐらい、と思ったが、小柄だからそう見えるだけで、もう少し上かもしれない。とはいっても、小学六年生か、せいぜい中学一年生だろうが。
「ひまり」
そう彼女は答えた。僕は、もうひとつ初めて見たときから気になっていたことを尋ねた。
「その髪型は、最近流行っているの?」
僕の斜め向かいに座る彼女は今、僕に対して右半身を向けている。それを見る限り、長く艶やかな髪を腰辺りまで伸ばした美少女だ。
「これ?」
と言って彼女は、顔を右に振った。黒髪がなびく。だがそれは半分だけで、彼女の髪の左半分は、癖っ毛のショートカットだった。頭の真ん中で、きれいに分かれている。アシンメトリー、と評するのは、恐竜を指して「トカゲ」というぐらい無理がある。
「別に。元から」
そう、と僕は答える。
「それより、あたしがどこから来たか訊かないの?」
「訊いてほしい?」
「別に」
「じゃあ、別に」
「警察に届けようとか思わないの?」
「苦手なんだよ、警察とか、病院とか」
「いきなり小学生の女の子が現れた、って、近所で変な噂にならない?」
「それは大丈夫。元から、変な噂しかないから」
「そう。だったら安心ね」
「なにが」
その問いに女の子は、大きな瞳をくるっとさせ僕の顔を見上げた。
「しばらく、居候させてほしいの」
「どうして」
「どうしても」
「いいよ」
「いいの?!」
女の子は驚いたように言った。
「どうして驚くの。そっちが言い出したことじゃないか」
「だって、普通はいきなり受け入れないじゃない。女の子が、一緒に住まわせてほしいなんて。普通だったら、事情ぐらい聞くでしょ」
普通、と言われると胸が痛い。おまえは普通じゃない、普通に考えろ、普通の振る舞いを身につけろ。今まで散々言われてきたから。普通、ってなんだろうか。たぶん、僕ほどそれについて考えてきた人はいない。だがその僕をもってしても、その答えは出ていない。
「君も、きっと、普通じゃないと思うんだ」
そう僕は答えた。
「普通だったらいきなり人の家の庭に現れたりしないし、普通だったらそんな髪型にはしないし、普通だったら唐突に居候を頼んだりしない。でも、そういう頼みは、断れないんだ。普通だったらこうでしょ、って言われると断りたくなるんだけど、普通じゃない頼み事だと、逆に断れない。いいよ、って言いたくなる。僕は見ての通り家族もいないし、気ままな一人暮らしだ。近所からも変わった人だと思われているから、これ以上評判が落ちることもない。いつまでもずっとっていうわけにはいかないけれど、君がいたいと思う間ぐらいは、別にいても構わないよ」
なぜだろう。その瞬間、ひまりの目から涙が溢れでたような気がした。でも実際はそれは目の錯覚で、ひまりはむしろ満面の笑みを浮かべ、こう言った。
「ありがとう、赫人さん」
――とぅーびーこんてにゅーしませんあしからず――