筋トレお化け
初めは宅配の配達員を装った男だった。彼はわざわざそれと見紛うような作業服を着て小包を持ち、チャイムを鳴らしてきた。僕の安い学生アパートではドアの覗き窓から外を確認するしかなく、用心するといってもできることは限られている。もっとも、それまでは僕は特に自宅にいて用心する必要なんて感じなかった。その男が「筋トレお化け」のことを尋ねてくるまでは。
「すみません、ごめんなさい。これ本当は嘘なんです」と彼はドアを開けるなり小包を指して言った。「でも、こうでもしないと怪しまれて話をしてもらえない気がして。筋トレお化けのことを聞きたいんですけど、なんて言ってもたぶんドアは開けてもらえないでしょう? 本当に申し訳ないんですけれども」。口調は丁寧だったが、彼の片足はしっかりとドアをホールドしていた。何よりも彼は分厚い作業着の上からでもはっきりと分かるほど筋骨隆々だった。並の鍛え方ではない。
「すみません、何とおっしゃいましたか?」と僕は怯えながら聞き返した。彼の手にかかれば、僕の特に鍛えてもいない腕を折るなどは造作もないことだろう。
「筋トレお化けのことです」と彼は言った。「筋トレお化け。心当たりありませんか?」
あるわけがなかったが、そんなに簡単に否定してしまうのも危険な気がした。彼の真剣さには、確かにそういった重大な響きがあった。「それはあの、人ですか?」と僕は質問した。
彼の顔にありありと失望の色が浮かんだ。僕が何も知らないことをはっきりと悟ったのだ。「いや、いいんです」と彼は言った。「どうも、お忙しいところすみませんでした」。そして帰っていった。
それから、筋トレお化けを求める人々が僕の周りを徘徊するようになった。日常生活でそうはお目にかからない体躯を持った男たちをよく目にするようになっただけではなかった。彼らのうちの数人は実際に話しかけてもきたのだ。
「あのう、すみません」
「筋トレお化けのことですか?」と僕が聞き返すと、彼らは一様に驚いた表情を見せた。「何も知りませんよ、筋トレお化けのことは」
「そんな、ちょっとでいいから教えて下さいよ。ほんの少しでいいんです」
「いえ、私は知りませんね」
「どうかそんなことおっしゃらずに……」
彼らは僕に迎合するように平身低頭で後ろをついてくる。僕は彼らを引き連れて、堂々と胸を張って道を歩いた。筋トレお化けのことを知っているというだけで、人はこんなにも偉くなれるのだ。僕はすっかり気を良くして、最近ではそろそろジムにでも行って筋トレを始めようかと考えている。おそらく、そのうちに本当に筋トレお化けのことが気になり始める日も近いだろう。何しろそれは筋トレをめぐる話に違いないのだから。
もしよければお買い上げいただければ幸いです。今後のお店の増資、増築費用にします。