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彼女はいないのかしら?

「彼女はいないのかしら?」

優しい目をした女性が僕に尋ねる。4,50代だろうか。断定できないのはその女性がマスクをしていたからだ。僕が感じ取れる情報は目元と声しかなかった。

僕は答える。間髪は入れない。

「いたら流石に…来ないっすよ」

語尾を崩した言葉と湿度の低い笑いが滴り落ちた。


僕はとある企業の最終面接を終えていた。

「採用を見送りたいと思います。」

その文章がスマホに届いた時、僕はお酒を飲んでいた。普段はあまり飲まない。ただその時は旧友と久しぶりに会っていたこともあり、美味しくもなく、流行ってもいない、そんな居酒屋にいた。

採用見送りの言葉を読みながら、ハイボールを流し込んだ。苦さはない。
とうに気力はなくしていた。なくした気力の代わりに、その文章には続きがあった。

「ただ、面接時の人柄も評価いたしました。地頭の良さも伝わってきました」
そんな内容が続いた。

その文章には、

応募とは違う仕事内容になってしまいますがどうですか?
東京ではなく、札幌になりますが、興味があればもう一度面談をしませんか?

という内容が続き、締めくくられた。

僕がそれを読んでいると、電話を知らせる画面が起き上がった。
転職エージェントの担当者だった。

酔いが回る中、電話に出た。夜はすでに20時を回っていた。こんな遅い時間に仕事しているだなんてご苦労なこったね、と思ったことをよく覚えている。

酔っていると声が大きくなる。ボリュームを下げようという思考だけは残っていた。エージェントには営業のつもりで話す。エージェントにとって僕は商品だ。嫌われることにメリットは一つもない。

「吉野さんの希望と違うので、断っていいですよ。なんなら私が言いましょうか」
と、怒りを混じえた言葉がいきなり飛んできた。聡明な印象の女性だった。優秀な人は感情の出し方も上手いんだな。
僕が決まれば、あなたにはお金が入る。だったら、押し込んじゃった方が得策じゃありませんか?と思った。もちろん思っただけだが。

僕は言った。

「ちょっと待ってくださいね。


えっと、


行きますよ、札幌」

一瞬、間が空く。

「え、でも。吉野さんの希望は東京で、営業職じゃなかったですか?」

希望か。

希望とはなんだろうかと自問する。僕は脳味噌のメモリから過去の人生を探し出した。


甲子園に出ること?
東大の野球部に入ること?
マウンドに固執すること?
誰かを救うラジオ番組を作ること?
世界一好きな女の子と結婚すること?
最大の友だと思った女と一生友達でいること?
大事な人の感情をぶん殴れる小説を書くこと?
弁護士になって人の感情の振れ幅を知ること?

僕はそれらを思った。明けない夜と流れない星を求める日々に希望はあったのか。
希望とは大げさな言葉だ。鬱陶しいくらい同じ意味の漢字が二つも並んでいる。

それらに費やした時間の多寡はもう僕には想像がつかなくなってしまった。

「ああ。特に希望なんかないっすよ。」

暑い日だった。
東京の夏。新橋の夜。湿度は高い。自分から出た笑いが、大気に含まれた水分と共に、地に落ちていく。

『もう、特に希望なんかないです。ほんと』

二回目は言わなかったと思う。本当に声に出ていなかったかは自信がないのだが。


札幌の夏。北国の湿度は低い。


僕はその面談を行っていた。
1対5。採用されれば、同じ部署になる人たちが並ぶ。
小さな会社だ。正社員にして70人くらいの会社。

「彼女がいるか」と尋ねた女性は経理だと言う。基本的に人事は“彼女の有無”を質問しない。人事というのは聞いてはいけないことを弁えているものだ。特に仕事に関わらないプライベートやパーソナリティの部分は尋ねないことが不文律となっている。

でも気を遣ってもらったところ申し訳ないが、残念ながら僕に聞いてはいけないことはない。
包み隠さず話すことができる。話せないことは、塵一つない。

面談の序盤。僕は目の前のお茶を手に取り、マスクを外した。
お茶を口に入れる。次いでに言う。

「こんな顔ですよ」

ハードルは下げておくに越したことはない。上がったハードルを飛び越えるのは極めて難しい。

コロナとマスクの3年間から学んだことは、
『見えないことによる期待値の上昇と急降下』に尽きる。

そこからは楽しく話した。会話は苦手じゃない。3000時間以上ラジオを聴いてきたことは時々活きる。

極、稀に、時々に。


面談を終えた。


僕は札幌の街をふらつく。営業職で採用見送りをもらった時も最終面接は札幌だった。本社が札幌だからだ。

その時は面接を受けに来ただけ。住むかもしれない街だという認識はなかった。

今は違う。住む街かもしれないという認識とともに歩く。

17時に開店したばかりの、回らない寿司屋に入る。

交通費としてもらっていた5万円。行きと帰りの交通費、一泊する宿泊費を計算した時に7,000円くらいは余る。あぶく銭はすぐに消えていく運命にあるのだ。


寿司屋のカウンターに一人で座る。

「飲み物はいかがしましょう」

水で。

とはなぜか言えなかった。ノンアルコールビールを頼む。
すぐに出てきたノンアルコールビールを飲んだ。

ああ、美味くねえなあ。

寿司も一貫ずつ出てくるのだが、ゆっくりと食べられず、出されたら即食べてしまう。それを10回近く繰り返した。

回らない寿司屋に慣れていない。大将と正面で二人きり。こういう場を乗り切れるラジオを僕は知らない。ああ、やっぱり使えないな。

その時にふと思った。大体の人間が人生の序盤で気づくことを、26歳、新たな土地で発見した。


「一人で食べるご飯って美味くないな」

鮮度の良い魚。明日宇宙が終わるならランキング個人的トップ。6,000円近くする寿司セット。ああ、美味しくない。


あいつと食べたいな。


一人の顔が浮かぶ。

でも、その人は僕ではない誰かとご飯を食べているのだろうし、これからもそうだろうなと思う。

これが人生ね。はいはい。

寿司をビールで流し込む。

脳は鮮明だった。先の人生を考える。考えたくなかった。もう決断をしたくなかった。他の人よりも決断をしてきたような気がした。もう飽きた。欲しいものは手に入らない。でもなあ、それもそれで嫌なんだよなあ。


どうしてこんなに考えるのだろうか。


寿司屋をそそくさと出た。

札幌の街。スマホにメールが届く。


そのメールには
「吉野さんの人生なので、他と比較してゆっくり決めてくださいね」
と書いてあった。

僕はすぐに返信をした。次いでに寿司を食べた時に思い出してしまった女にもLINEを入れた。

もうなんでもよかったのだ。
応募ボタンは選別せずに片っ端から押した。
一次面接に進むときに見たホームページは何のことか意味がわからず、行くのを辞めようと思った。
面接のビルを間違えた時、黙って帰ろうと思った。
無言ブッチはまずいなと思い、とりあえず電話した。
気づいたら札幌に来ることになっていた。

これは決断じゃない。流されるだけだ。

流されて生きてきた、と寂しそうに言う人がいる。流されずに自分のやりたいことに向かえるのがすごいよね、と言われたこともある。
でも、僕は流されて生きていける人が羨ましかった。自分で決めて、自分で選んで、自分で引き受けることに疲れてしまった。

甲子園じゃなくていい。東大じゃなくていい。一途じゃなくてもいい。

だから、一度だけでいいから、流されてみたいと思った。


その日、その時、僕は人生で初めて流されることを決断した。

女からLINEが返ってきた。

「あんたはやりたいことがいつもはっきりしてるのがすごいよね」

やりたいことねえ。

「俺はお前とお寿司が食べたかったし、一緒に飲むお酒が一番美味しいと思うし、できるなら死ぬまで毎年会える関係でいたい。それが俺のやりたいことだと思うけど」

という言葉を飲み込んだ。

今日は思考がはっきりしている。

どうして言葉が出ないのか。


そうか。
ノンアルコールビールを頼んでしまったからだと悟る。
どうやら人は酔いたい時に限って、酔えないらしい。

酔えない僕は、正常な判断力で、流されることを決断した。


誰に言われたわけでもなく、自分から出てきた欲求でもなく、誰かを追い求めたわけでもなく、


僕は札幌に移住した。



「彼女はいないのかしら?」
女性が聞く。

「いたら流石に『縁もゆかりもない札幌に、目的なく』来ないっすよ」


僕はこう、答えるのだ。


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