二浪目のこと(前編)
二浪目のことです。僕は早稲田大学の1年生でした。当時できた数名の友達と話すために英語の授業だけ出ていましたが、それ以外の授業は出ていませんでした。いわゆる仮面浪人というやつです。早稲田大学に合計100万円以上親が払っていましたので予備校に行くとは言い出せませんでした。そもそも予備校に行きたくありませんでした。トイレの回数が多く、授業を受けている余裕なんてないからです。英語以外の科目の基礎は完成していました。あとは知識の更新と演習をひたすらこなすだけだと判断して一人で勉強することにしました。
週に7日間ただひたすら高校範囲をやり続ける気力はもう残っていませんでした。20歳を目前に控えても自分だけ17、18歳から何も変わっておらず、毎日ひたすら同じことを繰り返す日々でした。高校3年生の延長戦をしている感じです。周りの同級生はみんないなくなり、部活も行事も何もない世界に一人で生きている感じです。景色が止まり、灰色に見えていました。SNSは全部辞めて、LINEも親以外ほとんど連絡が来なかったです。今思うともっと頑張れた気もしますが、当時は頑張ろうと気合を入れないと頑張れない日々でした。シャトルランと同じで、結局その時にできなかったことはできなかったことだと思います。人生をやり直してもきっとできないことです。夢というのは凶器になり得ると知りました。東大で野球がしたいという夢を持ったおかげで異常な劣等感に苛まれながら、自分の嫌な部分と24時間365日戦うことになりました。それでも夢を追いかける君は素敵だよ、と今の僕は思うのですが、当時は自分のやっていることが正しいことかわかりませんでした。そもそも正しいことなんてないですが、何かを諦めるという生き方をしたことがなかったので、諦めなければいつか夢は叶うと本気で思っていました。不器用に生まれても、諦めない気持ちだけでそれまで大抵のことはなんとかなりましたから。もちろんダメなことの方が多かったですが。
昼食代や自分のお小遣いを親にもらうのはどうしても忍びなく、バイトをすることにしました。週に3回、夕方以降、知り合いの来ないであろう駅近くの100円ショップで働きました。本当は塾講師を数校応募したのですが、面接で泣いてしまったり、自然に笑うこともできなくなっていたので普通に落とされました。
100円ショップで働き出してから否応なく人と接する機会が増えました。高校を卒業してから、1年以上まともなコミュニケーションをしてこなかったので、この経験は大事だったと今強く思います。僕が普通に笑えて、他人の話を聞いて、必要なことを話せる、という至極当たり前のコミュニケーション能力を持てているのはこのバイトがあったことが大きいと思います。
出勤2日目の時、新しいバイトが入ってきました。女の子でした。大学1年生の女の子で、僕より1歳年下です。丸顔で童顔の可愛い女の子でした。色んな人に分け隔てなく接して、明るくて、勉強を真面目にして、おしゃれと化粧が好きで、田舎から出てきた女の子でした。久しぶりに女の子と会話をした気がします。浪人している時に同じ高校の女子と話す機会はありましたが、浪人生同士の会話はシケたものなのでカウントしません。陽のオーラを一心にまとった異性と久しぶりに話すことに震えたような気がします。シフトが被り、最後の締め作業を一緒に行う機会がありました。4人ほどでレジを締め、掃除をし、電気を消して、戸締りをするという締め作業です。それが終わるとそれぞれ帰路につきます。自宅が近い人はそちらに向かいます。僕は駅に向かうのが通常です。その女の子は地方から出てきたので、近隣の女子寮に住んでいました。バイト先から歩いて帰れる距離です。締め作業の後、その子と話しながら戸締りをし、解散になりました。よくあることですが、会話の区切りがつかない時があります。その日はまさにその状況だったので、女子寮の方まで二人で歩いてその女の子を送っていく流れになりました。駅とは反対方向ですが。人とした過去の会話の内容なんてほとんど忘れています。でも何故かその時の会話を覚えています。宇宙の話をしていました。その子が宇宙の本でも読んだのか、誰かから聞いたのかわからないけど、ちょうど宇宙の話をしたかったみたいです。女の子と二人で歩きながら宇宙の話をしたのは生まれて初めてでした。ちなみに僕の会話の引き出しに宇宙の話はありません。跳ねるように歩きながら楽しそうに話すその子の話に相槌を打つくらいしかできませんでした。
そうしてその子を送って自分の帰路につきました。中高と大抵一人で帰っていたので、女の子を家まで送るという経験は初めてでした。その後連絡先を交換して少しずつ仲良くなりました。僕は自分のしていることを隠しながら生きられるほど器用ではないので、「早稲田で仮面浪人をして、東大を目指していること」は早い段階で言っていました。その子は引きませんでした。野球をやりたいから仮面浪人して東大を目指しているという他人からは理解しづらい理由です。それでもその子は引くことがなかったです。それはとてもありがたかいことでした。高校の同級生やそれまでの友達がどう思っているか怖くてほとんど会えなくなっていました。まあ今思えば僕が何をしているかなんてさほど気にしていなかったでしょうが、社会のレールをしっかりと走っている優秀な同級生が怖かったのです。ドブのような場所からそれを見ている僕にはとても輝いて見えました。何かのタイミングで僕に会っても、バカにすることはありませんでした。でも僕は自分で自分を追い込んでいたので、そうしたありがたいはずの態度ですら怖くなっていました。
話は戻ります。
その女の子が大学の授業の課題でわからない部分があると言いました。見ると高校の化学で説明できるレベルだったので、僕が教えました。何かお礼をしたい!と言われました。その時の僕は人生に楽しみがなくて、血迷っていたのでしょう。身近にいるその明るくて可愛い女の子を好きになっていたのも事実です。その子が僕にするお礼なのに、僕は「一緒にディズニーランドに行って欲しい」と言いました。
その子はディズニーが好きだったこともあり、二つ返事でOKをくれました。あまり仲良くない女の子とディズニーに行ってはいけないという話があります。待ち時間で気まずくなるとかなんとか。僕はそれまで彼女がいたことがありませんでした。考えてみればデートらしいデートをしたこともなく、初デートがディズニーランドというハードモードを選択しました。正直なんでも良かったのです。それまで2年近く受験勉強というものをしました。周りの人はみんないなくなって一人でした。宙に漂うような夢だけを思い描いて、勉強をして寝付けなくてマウンドから投げている自分を思い浮かべて泣くだけの日々でした。端的にいえば終わりの見えない地獄です。毎日自分を責めて生きていました。可愛いと思う女の子と一回くらいデートに行ってもいいんじゃないかと思ったのです。久しくディズニーランドに行っていない僕は錦糸町の大きな本屋で2冊のガイド本を買いました。それを読み込んでマップを脳に叩き込み、当日のスケジュールをなんとなく想定し、状況に応じて変更できるように多くの情報を頭にぶち込みました。待ち合わせの1時間以上前には着いていました。僕は初めて自分が入念な準備をするタイプだと知りました。ちなみに受験勉強はちゃんとしていました。とはいっても毎日10時間勉強する気力も体力もとっくになくなっていたので、6時間くらいです。
ディズニーデートの日になりました。確かその子はボーダーの服を着ていました。いつも通りの明るい笑顔が印象的でした。入園して早々プロジェクションマッピングのやつの抽選を当てて、園内を回りました。何を話したか、何に乗ったのか、何を食べたのか、あまり覚えていませんが、気まずくなることはありませんでした。日が沈み、辺りが暗くなってきました。プロジェクションマッピングのやつの席はシンデレラ城の前です。時間が近づき、そこに向かう道は人が多くて混んでいました。気づけば僕はその子の手を取り、そこまで引っ張っていきました。文化祭の役で繋いだことを除けば、女の子の手を握るのは生まれて初めてでした。この文章には生まれて初めてのことが多いですね。すごく胸が高鳴っていました。センター試験に向かう電車が止まった時とは違う胸の高鳴りでした。あれもやばかったですが。生きている感じがしました。手を繋いでいること、園内の暗さ、プロジェクションマッピングの壮大さがごちゃ混ぜになりました。帰りに告白し、付き合うことになりました。僕は二浪目の仮面浪人生であることを再度ちゃんと伝えて、そういうことを理解した上で付き合ってくれることになりました。もちろん今思えば、東大に受かりたい人の行動としては間違っています。僕が他人ならば、「君は目的のために正しくないことをしている」と言うでしょう。でも当時の僕はその道を選んだ。ということは人生をやり直してもきっと同じ道を選ぶということです。人生にたらればはないし、あってもきっと結果は変わらないでしょう。
そうして僕は2浪目の仮面浪人生という一番意味のわからない肩書きの時期に人生初の彼女ができました。
※後編
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