初めての入院 チョコレート嚢胞
何気なく受けた市の婦人科検診がきっかけで、手術することになってしまった。
右の卵巣嚢腫(チョコレート嚢胞)による腹腔鏡手術。
婦人科医の「少し子宮が腫れてるね?」という一言から、MRIを取り、病気が発覚。必ず手術しなければならないという大きさではない、とのことだが、これが万が一破裂した場合(破裂ってなに?)、想像を絶する痛みで救急車からの緊急手術になるらしく、そんな爆弾を抱えたまま生きていくのはごめんだと、思い切って手術に踏み切ることにした。
初めての入院である。右も左もわからない。
とりあえず職場に報告することにした。
当時の上司がいい人で、休職の手筈だけでなく、社会保険の控除やら、健康保険への申告、限度額申請まで、アドバイスしてくれた。
世の中には弱った時に効果を発揮する仕組みがいろいろあると知る。(後日談だが、払ったお金と受け取ったお金を換算すると、黒字になった)
そして職場に系列の病院があったため、いつも働いているところと目と鼻の先で入院することになった。変な感じである。
入院日は、一人でスーツケースを引いて、病院に向かった。その日に入院する人たち、30人ほどで、オリエンテーションを受ける。
まるで学校の初日みたいに、病院の仕組み、場所の案内、ご飯のこと、お風呂のことを学んだ。
病気とはいえ自覚症状がないので、全然元気な私は、絶食で鳴る腹をなだめながら、持ち込んだ携帯ゲーム機で妖怪ウォッチをプレイしていた。
病室は4人部屋だった。みんなずっとカーテンを引きっぱなしで交流もないが、若い人が多かった。
婦人科なので、当たり前だが全員女性だ。
病気の種類によって部屋が違うのかもしれない。私の部屋は入れ替わりが激しく、短い入院の人が多いようだった。
私も一週間で退院の予定だ。
一日目の夜、看護師さんが睡眠薬を持ってきてくれた。入院初日は眠れない人が多いから、とのことだった。
初めて飲んだ睡眠薬の効果はすさまじく、私はあっという間に眠りに落ちた。夢も見ない、深い深い眠りだった。
翌日は、手術当日である。
当然朝ご飯は出ず、代わりに下剤を渡された。
私の腸内が空っぽになったころ、金沢から両親が到着し、夫と共に病室にやってきた。
ただの腹腔鏡手術なのに、少し恥ずかしいなぁと思いながらも、知った顔が並んでいるのは心強かった。
すっぽんぽんの状態で術衣を着る。歩いて手術室に向かうことになった。
じゃあ行ってくるね、と声を掛けたら、父がめちゃめちゃ不安そうな顔をしていた。
手術前、父は私に、担当医にお金を渡しておくよう言ったのだった。私が小学生のころ、祖父が手術するときはお金を渡しているのを見たが、現代の大学病院でそれをするのは職務規定違反である。
それでも渡したらきっと受け取ってくれるから、お金を包みなさいと言われ、私は悩んだ挙句、もし担当医が当然の顔で受け取ったら、私が担当医を信頼できなくなるから、お金は渡さない、という結論を出したのだった。
父親は不服そうだった。手を抜かれたらどうするということらしい。
その時はその時だ!と謎の気合で、私は父の視線を振り切って、手術室に向かった。
大学病院の手術室は、まるでドラマのようだった。長い廊下の手前のほうの部屋に案内され、座るように指示された。
目の前の看護師は、前置きもなく私の手の甲の血管に太い注射針を刺した。
「痛いんですけど!」
私は強めに文句を言った。そうですねーと流されて腹が立ち、もう一度文句を言おうと口を開いたが、
次の瞬間、気が付いた時にはどこかに寝ていた。
完全に記憶が飛んでいるが、手術は終わったらしい。全身麻酔って怖い。あのまま目が覚めなかったら、人生最後の言葉が「痛いんですけど!」になるところだったのだ。
目を開いてぼーっとしている私に看護師が気づいて、「目を覚ましましたよ」と声をかけた。
両親と夫が、部屋に入ってきた。私の感覚ではさっき会ったばかりであるが、彼らは少々涙ぐみながら「頑張ったね」「偉いね」と口々に私に言ってきた。正直に言うと、私は何もしていない。ただ寝ていただけである。
夫が握ってきた手がすごく暖かくて、心地いいと思った。
バイク事故に行き会った人が、手を握ってほしいと頼まれたという話をこの時、思い出した。人の手ってこんなに暖かいのだ。
夏だったけど、毛布を持ってきてほしいと頼む。
「お昼食べたの?上のスカイラウンジで食べてきたら?」と私は具体的なことを言い、彼らを部屋から出したあと、また眠った。
夜にふとはっきり目が覚め、改めて私は自分を観察することにした。どうやらここは自分の病室ではない、集中治療室のようなところらしい。
同じ日に手術をした婦人科のメンバーが並べられていて、スタッフの気配が近いので、経過観察をしているのだろう。
私に色んな管が繋がっている。
口は酸素吸入器、指先に酸素測定器、点滴、おしっこを出す管(麻酔で気を失っているときに付けられたんだな)、そして腹部から、謎の太めの管が出ている。謎の管の中身は赤黒い液体。出所はどこなのだろう、まさか直接腹から…?ここまで確認して、それ以上見るのをやめた。怖いからだ。
私の荷物は何もなかった。スマホを取ってきてほしいと看護師に頼んだが、休むように言われ断られた。マジで何もすることがないので、私はひたすら寝た。
翌朝、看護師さんが熱く濡らした布を持ってきてくれた。それで顔を拭き、歯磨きもその場で少量の水で行う。何もかも、人にしてもらうのが申し訳なかった。
そして、自分の病室まで戻る儀式を昼に行うと宣言された。歩いて自分の病室まで戻れたら、おしっこの管を取ってもらえるらしい。
私はヨシ!と気合を入れた。トイレはぜひ自分で行きたい。あと友達に連絡もしたいので、スマホは必須だ。絶対に自分の病室に帰るぞ!
その儀式の時に最も痛み止めが効くように調整した時間にロキソニンを飲み、その時はやってきた。
点滴スタンドを杖代わりに、必死に病室に向かった。頑張れ!と看護師さんが励ましてくれる。体がもたつき、亀の歩みである。転ばないように必死だ。
でもスマホ!という思いで、やっと病室に帰ってきた。
自分の荷物、自分の毛布、自分の枕、自分のタオル、なんてすばらしいのだろう。
母が待ち構えていて、世話を焼いてくれるので、私はクレオパトラのようにやれやれと寝そべっていた。念願のスマホでラインをし、さて妖怪ウォッチのガチャを引かなきゃと、携帯ゲーム機を開いたところで、主治医が回診にやってきた。
ゲーム機を手に持っている私を見て、彼女は「元気そうですね」とクールに言うと、診察もせず去っていった。せめて診察してほしかった。
そして約束通り、おしっこの管と、謎の赤黒い管を抜く瞬間がやってきた。
直視しないようにしていた謎の管は、本当に私の腹部から出ていた。ていうか、私の腹ってまだ穴が開いていたのだ。何かの液を出す用だったらしい。
麻酔もせず、その管をぬーっと引っこ抜かれた。痛くないのが逆に怖い。なんだか気持ち悪い感触がしただけだった。私のお腹の神経無くなっちゃたの?
そして管を抜いた穴をどうするのかと思っていたら、マスキングテープみたいなので軽く止めただけだった。縫わないの?!
自然に塞がるらしい。神秘なる人体。
その日の夜は、入院して初めて食事が出た。ほぼ水のおかゆと、緑色のペースト(ほうれん草?)と、黄色いペースト(かぼちゃ?)と、具無しのお味噌汁だった。
もはやお腹がすいた感覚もなかったが、ペーストの食事は美味しかった。
さて、自分の病室に戻ってからは、自分でトイレに行かなければならない。初日に飲んだ下剤がまだ利いていて、ずっとおなかの調子が悪かった。
傷口が痛むので、常に前傾姿勢の「く」の字の状態で行動していた。
でも私は知っていた。トイレに行くとき、ナースステーションの前を通るのだが、看護師さんたちが、患者の歩く様子を観察していることを。
こうなったら目標は一日でも早く退院して自分のベッドで眠ることである。私はナースステーションの前だけ、まっすぐで歩いた。手すりに摑まるのも我慢した。そこを通り過ぎると、また「く」の字に戻ってもそもそ歩いた。
この頃から、動くなから一転して、動けと言われるようになった。そんな殺生な。
時間だけはたっぷりあるので、階段を使わずに一階に降りて、スターバックスの匂いをかいだり(ずっと下痢気味なのでコーヒーが飲めない)、むだにコンビニに毎日顔を出した。
マスキングテープで止めただけの傷口が不安で、左手でずっと傷口を押さえつつ歩いていた。
お風呂に入るときも、水が中に入らないかひやひやしたが、おそらくもう傷口は塞がっていたのだと思う。
同じ病室で、同じ日に手術を受けた女の子がいた。年は同じくらいだけど、その子は卵巣を1つ切除したのだと言っていた。
旦那さんが毎日3人の子供とお見舞いに来ていた。お子さんが大きいので、いくつの時に出産したのだろうと思っていたら、前妻の子なのだそうだ。
でも子供たちは奥さんにすごくなついていて、早く帰ってきてね!といつも言っていた。その子も嬉しそうだった。
旦那さんは夜の飲食の仕事だと言って、昼間はずっと彼女に付いていた。
色んな家庭があるな、と私は思った。
私の夫も毎日来てくれていたが、面会時間ギリギリで滞在時間5分だった。病人みたいで嫌だからという理由で、私はパジャマをレンタルせず、私服を着ていたので、洗濯物を持ち帰り、また持ってくるのが彼の主な役目だ。
あと病院の洗濯機は何となく嫌という理由で、家で洗濯してもらっていた。
わがままな病人である。
努力の結果が実り、予定より2日早く退院することになった。
退院の日はさすがに夫に車で迎えに来てもらった。まだ若干「く」の字ではあるが、日常生活には戻れそうだった。
退院の日、友達が差し入れに来てくれるというので、何が欲しいかと聞かれて迷わず「パン」と答えた。
入院生活で私はパンに飢えていた。病院食の和食は普通に美味しいのに、パンが壊滅的にまずかったのだ。パッサパサの給食のパンのような。
友達は、京都の高級食パンを買ってきてくれた。もちもちのやつを一斤まるごとだ。千切って食べてみる。めっちゃうまい。夢みたい。
これを細くカットしてサンドイッチにして食べたい。ワクワクと包丁を出して、絶望した。
弾力がありすぎて全く斬れないのだ。パン用の包丁がないと駄目だ。でも夫はもう仕事に行ってしまった。
私は傷口を抑えながら、駅前のハンズに向かった。
食欲が痛みに勝った瞬間である。そしてパン用の包丁を買い、家でサンドイッチを作って食べた。
とても美味しかった。
これが最初の卵巣嚢腫の思い出だ。8年後、再発して卵巣嚢腫第二章に突入するのは、また別の話です。
みんなも検診を受けような!