日常のなかのしあわせ
よく晴れたある日の午後。透き通るような薄く淡い水色の空が広がっている。冬にしては暖かな日差しがもうすぐ訪れる春の兆しを感じさせていた。
駅のホームで電車を待ちながら、ふと駅のそばに建つマンションが目をやると、15階はありそうなそのマンションの多くのベランダには洗濯物が干してあった。洗濯物はみな一様に暖かな日差しに照らされ、気持ちよさげに風になびいている。その光景を目にしたとき、ふいにそのあたりまえの日常の光景がとても愛おしく思えた。
そのマンションは、おそらくファミリー向けに建てられたのだろう。そこには多くの家族が住んでいるはずだ。ひとつひとつの家族が、あのずらりと並んだ部屋の一室で各々の生活を営んでいる。その至極あたりまえの事実が、実はあたりまえではないことに気づいてハッとしたのだ。
家族が家族という体を成すということは、その家族みんなの努力で成り立っているのだ。あのひとつひとつの部屋には多くの人間の喜怒哀楽がつまっている。家族だからこそぶつかり合うこともあるだろう。そのなかでお互いがバランスをとりながら生活を共にして「家族」というものを形づくっている。
「家族」は脆い。たとえどんなに血を分け合っていても、なにかの拍子にバランスが取れなくなれば、あっという間に崩れさってしまうことだってある。家族のなかで憎み合う人たちも存在する。ましてや夫婦は血の繋がらない他人だ。その2人が結婚し、子供を作り、家族が出来上がっていく。そして生活を営んでいく。あたりまえのようでいて、実はそれはものすごいことだ。
あの洗濯物たちが今こうして暖かな風になびいていて、それがとても穏やかな日常の風景に感じられるのは、あのひとつひとつの部屋に住む家族が、毎日そのあたりまえの日常を送れるよう、みんなで家族を成り立たせているからかもしれない。もちろん中には壊れかけたり、すでに壊れている家族だってあるだろう。けれど、そこに住まう人々が、みな一生懸命生きて、生活を営んでいることに変わりはない。そう思ったら、このあたりまえの風景がとても愛おしく感じられた。幸せは、こうした日常の風景のなかに、何食わぬ顔して存在している。