雑記 最近考えたこと
最近、ひとりで行動することが多くなった。
喫茶店に行くときはひとりのほうが好きだし、買い物もひとりがいい。
映画は今までは一緒に行ってくれる人を求めていたけど、今はひとりがいい。
映画に関しては、観終わった後の感想を誰かと共有したいと思っていたから必ず誰かを誘っていたけれど、その世界観に浸ったり観終わった後すぐの感情を自分の中で理解するためには、「感動したねー」「本当泣いちゃった」という定型文句の会話が不毛に思えるし、自分のどの記憶を思い出して泣いたのか、どの部分に衝撃を受けたのか、どんな風に自分の人生と重ねたのかを浸りながらゆっくり考えたい。
だから、一緒にいる人をないがしろにしてしまうのが怖いから、ひとりで行くことにしている。
ある出来事について、自分の感情を理解する作業は時間がかかって、深い霧の中みたいで、あるいは水に潜ってるみたいにちょっと苦しい。
一度腑に落ちたと思っても何度も吐き戻しては消化してを繰り返して、ようやく時間をかけて溶けていく。
わたしはそうやって、人生の答え合わせとか未来予想図みたいに映画を観ることが多いけれど、でも、別に自分の人生と全く重ねないで風景を見るみたいな視点で映画を観てもいいのかもしれない。
映画も本も、表現物全てを心に取り込んで「わたし」の視点で見れば見るほど、麻痺をしてどんなものにも心が揺れなくなって、わたしは自分が分からなくなる。
最近、自分の人生を深く考えすぎている時がある。
もともと考えることが趣味で、考えるために考えるみたいなところがあって、寝ている時以外は思考が止まらない。
最近は特に無性に自分に自信が無かったあまりに、わたしはどんな人間なのかについて考えすぎた。
就活の他己分析をお願いするのも、やりすぎると意見が矛盾してよく分からなくなるからやめた方がいいというけれど、それはもらった分析結果全てを自分の中に取り込んで理解して飲み込もうとするからだ。
知らない間に、他人から見た評価が自分からみた自分の評価になっている。
わたしはよく強いねって言われるけど、本当に強かったらこんな文章を書いていない。
そもそも強さとは、攻撃や向かい風を受けても耐えてびくともしないことなのか、もはや鈍感を貫いてそれを気にしないことなのか、本当は倒れそうだけど、後ろ足で踏ん張る力が強いことなのかそれのどれのことを言っているんだろう。
本当はどれのことを言っていてもどうでもよくて、「結局、自分が潰れないこと」を指しているのなら、わたしは全然強くなくて、もっと鈍感さを身に付けなければ上手く生きていけない。
本当に自分を知りたいのなら、あまり自分の人生とか気持ちを答え合わせしようとしないことだ。
分からないなら分からないままにしておけばいいのに。
最近、友達が恋人と別れる決断をする相談を聞いた。「どうしたほうがいいと思う?」という問いに、「別れなよ」と同調したわけでもなく、「やめときなよ」と止めたわけでもない。自分の意見は一切伝えなかったし、誰かの恋愛に対するわたしの意見なんて、親身に寄り添っているように見えるだけで、本当はスクリーンに映し出される他人事の恋愛映画を観て書いた感想文に過ぎない。
だから、どうしていいか分からなくて、ただゆっくりと話を聞いて、「それでどう感じたの?」って聞くのを繰り返していた。
自分の本心と、彼としばらく一緒にいた「情」の間に揺れて、苦しそうだなと思った。
最後に、「色々聞いてくれてありがとう。おかげで決断が出来た。」と言われて、その次の日に友達から話を切り出して別れることになった。別れた報告と共に、彼女は、わたしが相談を聞いている時に不意に漏らした「手放すべき時に手放すものだ。」という言葉が忘れられなかったと教えてくれた。
心を決めて話して、きちんと納得し合えたらしい。
その友達が彼と付き合うか悩んでいた時も話を聞いていたんだけど、当然その時の方が自分の気持ちを確かめるだけでよくて、情が無い分苦しげがない。
人は誰かを好きだと思うのはひとりで決められるのに、誰かと別れることはひとりで決められないことが多い生き物なんだと知った。
得るときは割と楽観的に得られるのに、手放す決断をするときは苦しい。
でも、その苦しさを感じることが本当に愛なのか、単なる自己陶酔なのかは分からない。
わたしもこの前初めて失恋を経験した。
はっきりとしない理由で振られたわけで身勝手だと思ったけれど、いくらか揺さぶってみても、別れ話の相手の電話口の声色や口調に、微塵も決断の揺らぎを感じなかったことに救われた。
受け取るしかないたったひとつの結論は、何も言わずに受け取れるものだ。
切ない揺らぎたっぷりの失恋ソングにも失恋映画にも一切自分を重ねることがなかった分、切なさや悲しみの感情に浸る深さは浅かった。
決して皮肉ではなく、あぁ良かったと思った。
「揺らぐ」ということは、時に残酷なことなのかもしれない。
自分の感情と他人の感情、そして理想の姿と現実の全てを理解して飲み込もうとすれば、正解を導けそうに見えて、本当は、行き先も分からなくなって揺らぎの中に溺れ死んでしまいそうになる。
時に「切り離す」という勇気を持てたとき、わたしはもう少し強くなれるんだろうか。