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言葉のキャッチボール

〜当たると痛いのは見えないものの方が強い、らしい〜

noハン会の小冊子に寄稿したものです。

どのくらい経っただろうか。湯気を立てていたコーヒーはすっかりと冷え切ってしまっている。
「コーヒーがすっかりさめ…」「そうそう!昨日ひどいことがあったのよ」どうやら彼女の話の終着点は、地平線のずっと先にあるようだ。

彼女は完璧な女性だ。美しくて聡明で、彼女の手料理を前にするとレストランなんてつまらない。朝グシャグシャのまま出かけるベットも夜には綺麗にメイキングされているし、毎日僕の帰宅を見計らったように温められた風呂が用意されている。
毎朝僕を笑顔で送り出してくれる最高の妻だ。
けれど、そんな彼女のたった一つの欠点と言ったら、「話し始めると止まらないこと」なのだ。一度話し始めると、僕が何かを問いかけても決して答えることもない。
彼女との会話はキャッチボールではなくて、まるでドッジボールだ。

「それで?いつもきみはドッジボールの球を避けることしか出来ないんだって?」友人のK氏は僕の相談に、涙を流して笑っている。
「笑い事じゃないよ。そのドッジボールだけは我慢ならない」
「本当おかしいな。いつ聞いても良い酒のつまみだ。それできみはどうしたいんだ?」
「もちろん、おしゃべりな彼女も可愛い。でもせめて、ぼくだって彼女に話したいことがある」
K氏は頷きカバンから何やらゴソゴソと取り出した。
「そうか。実はそんなきみにいい薬があるんだ」K氏が差し出した手のひらにはフィルム紙で包まれた白い粉薬があった。
「これは何だい。まさか、きみ、悪い薬でもやってるんじゃないか」
「そんなんじゃない。これは国が安全性を認めている薬だから安心してくれ。実はこれを飲むと同じように薬を飲んだ相手とキャッチボールが出来るんだ」
「どういうことだ。その薬を飲んで、実際に妻とキャッチボールをしろっていうのか?ボールなんて持ってないよ」
K氏は二つのハイボールに白い薬をサラサラと入れるとジョッキをぼくに持たせてニタニタ笑った。「まぁ、飲んだら分かるさ。きみとぼくのスポーツマンシップに乾杯」

ぼくは一気にハイボールを飲み干したが変化はまるで無い。「どういうことだよ。きみの言うことはさっぱりだ。だからきみはいい加減なやつなんて言われるんだよ」ぼくがK氏に軽口をたたいた瞬間、彼は突然左肩を押さえてうずくまった。「おい!どうしたんだよ!」「最初から豪速球なんて反則だな」K氏はわざとらしく顔をしかめる。
「きみがぼくに暴言を吐くから、硬いボールが思いっきりぶつかったんだ。
実は、この薬を飲んで相手と会話をすると、その言葉がボールになるんだ。ボールはその言葉の受け止め方によって硬さを変える。
キャッチボールなんだから、投げられたボールをきみは受け止めて投げ返さなきゃ続かないよ。
いいかい。避けてばかりいないで、まずは受け止めることが大切さ。何事もね」

「あなたの買ってきてくれたワインに合うでしょう?」その晩ぼくは早速その薬を試すために上等なワインを買って帰った。
彼女は微笑みながらマリネを口に運んでいる。「やっぱりきみの料理は最高だ。さぁ、乾杯しよう」例の薬のブレンドワインが注がれたグラスが軽やかにカチンと鳴る。
「それにしても、今日は早かったのね。今夜は遅くなると言っていたのに」彼女が少し困惑した笑顔を浮かべると、チクリと肩の辺りが痛んだ。「久しぶりにゆっくりときみと話したいと思ってね」「あら、いつもあなたとはお話ししてるわ」「いつもぼくはきみのおしゃべりを聞き流してしまっていた。だから、今日はぼくの気持ちをちゃんと言葉にしようと思って」

ステレオから流れるジャズのトランペットがやけに耳に響く。ワインがゆらりと揺れたのと同時にぼくは微笑む。
「ぼくはきみのことを愛しているよ。心から」唖然としていた彼女は、次第に頬を染めながらゆっくりと手を胸に当てた。「何かしら。何だか、胸でじんわりと温かい塊を受け止めたみたいだわ」
ぼくは非常に満足だった。「これがぼくの伝えたかったことさ」
彼女は出会った頃のようにぼくを潤んだ目で見つめながら唇を開いた。
「わたしも、愛しているわ」
彼女の美しさを前にその言葉のボールはもはや凶器のはずだった。
それなのに、何故だろう。目眩がするほど嬉しくてたまらないのに、どうしてか全くボールを受け止めた手応えがない。

その時、背後でドサリと音がした。慌てて振り向くと、クローゼットの陰でK氏が恍惚とした顔で倒れていた。「おい!どうしてきみがここにいるんだ!」
「痛い、痛い!やめてくれ」
悲鳴をあげながらもK氏はニヤリと口角を上げた。
「一つだけ言い忘れていたよ。その言葉のボールは本心でそう思う相手にしか届かないんだ」
彼女の方へ振り向いた瞬間、ぼくは胸に鋭い衝撃を感じて気を失った。
最後に聞いたのは、「…ごめんなさい」という彼女の言葉だった。

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