名前のない感情を書く理由#わたしの執筆スタンス
最初に物語を書き始めたのは、確か小学生の時だった。でも、何か表現したいことがあってとか将来作家になりたくてとかでもないし、頭に物語が溢れてくるような天才でもなかった。
ただ、自分が人よりもちょっとだけ書くことが得意なことは知っていたから、その得意分野で誰かに褒められたかったからだ。
正直、物語の内容なんてどうでもよかった。ただ、上手だねぇとかすごいじゃん!って褒められたいがために書いていた。だから、あの頃書いた物語の内容は覚えてないし、書いてて楽しかったかって聞かれると正直分からない。
でも、書いている時だけわたしは自分が自分でいられる気がしていた。物語を書いたノートの中は、何を考えても何を書いても、自由と秘密が守られる唯一の秘密基地だった。
小さい時から本を読むのが好きで、友達を上手く作れなかったわたしの親友は、本だった。
本気で本屋さんに住みたかったし、本屋さんに行くと何冊も本をねだるわたしに、お母さんは本だけは決してダメだと言わずに買い与えてくれた。
本というよりか、"文字"に興味があったのかもしれない。内容もよく分からない電化製品の説明書から、エレベーターに乗ってもエレベーターのボタンに銀のテープで貼ってある注意喚起の文字まで読んでいた。
よく分からない記号みたいな羅列でみんなその意味を理解できるのが不思議だったし、成長と共に身長が伸びたり、乳歯から永久歯に生え変わるみたいに、"漢字が読める"のも大人になれば自然に"漢字が理解出来る目"に変わるのだと思っていた。もし、そんな目に変わって漢字が読めるようになったら大人たちがドラマを見て泣いたり、ひたすら座っているだけの退屈なはずの電車移動で、窓の外の景色を眺めていたら面白いし、あっという間に時間が過ぎると言う理由が分かるんだと思っていた。
結局、大きくなっても漢字を読めるようになる目に変わることはなく、学校で毎日一生懸命漢字ドリルで書き取りの練習をしてコツコツと覚える必要があったし、思春期を迎えると、ドラマで泣いたり景色を眺めてしみじみするのはダサいと思うようになった。
趣味を読書って言うと何か真面目でつまらない子みたいだし、それよりも話題のドラマを見ていた方が友達との会話に入れるから、いつのまにか本を読まなくなった。
感情をむき出しにすることはクールじゃなくてダサいし、映画館で映画を見て泣いている人たちを笑ったり、家族からの愛情はうっとおしくて、心のどこかではありがとうと思いながらも、知らん顔をしていた。
漢字でもアルファベットでも、どんな文字でも理解できるようになるにつれ、大人になるにつれ、
感情は不自由になった。
社会の中の大人に感情はいらない。
感情と理論、どちらを優先する?って問いかけたことがあったけど、問いかけたくせにうまく答えられなかった。
社会人として答えるならもちろん理論だ。組織の中で生きていくのにいちばん邪魔になるのは、紛れもなく感情だ。
もちろん、感情と思いやりは別物だし、誰かの気持ちや心を汲めないならば組織なんて成立しない。
でも、頭に血がのぼる感覚。捨てきれないプライド。心が奪われてしまう大好き。理性で押さえ込めない本能。
感情は正しい判断を揺るがすと知っているからこそ、大人に感情は邪魔になる。
ビジネスライクとか、正しい距離感を守れるからこそ秩序が守られる。
冷静さを欠かないからこそ、色んなものを守れる。生きていける。
だから、「感情」は取り扱い注意のダンボール箱に入れてそっと蓋をしておく。
わたしの目そのものが"漢字を読める目"に変わるわけではなかったみたいに、心は変わらないまま、大人としての感情の扱い方を習得した。
わたしは「名前のない感情」を書いている。
でも時々感情なんて書くもんじゃないと虚しく思う。だって、感情なんていちばん自分勝手で、そんな独りよがりの世界観を描いて気持ちいいのは自分だけなんだろうって思うから。
どうせ書くなら、誰かの生活に役立つような有益な記事を書きたい。ビジネスでこんなサービスがあるよとか、ここのカフェめっちゃオシャレだよとか、スタバのおすすめカスタマイズとか(これだけは多分まじで書く。コロナが終わってまたスタバに行けるようになったら、スタバだけは語らせてほしい)
誰かが読んでて楽しくなるような記事を書きたい。誰かの心を刺激するような、気分を変えられるような、そんな誰かのための記事を書きたい。
でも、これ面白いかなって考えながら書く文章こそ全く面白くなかった。多分わたしにそういう才能はない。
でも「名前のない感情」を書いていたい。
言葉に上手くできないけど、なんか込み上げてくる感情をどうにか誰かに喋りたい。
喜怒哀楽の隙間の感情を絶対に失いたくない。
最も知りたいのは、言葉にして言いようもない「喜怒哀楽の隙間の感情」の理由なんだと思う。
だからわたしはその感情をひとくくりにせずにどこまでも分解して、その感情の意味を知りたい。
大人になって色んなものを見て色んな感情を知って、やがてその収めどころを知るたびに、物知り顔になる。
こうするべき結果と諦める結果を知っている。
泣きたくなる夜にお酒で飲み込む感情は残された感性だということに気づけなくなる。
そうやって、泣かないことが美学だと信じるようになるにつれ感情の隙間に気付けなくなる。
なりつつあって、わたしはそれがいちばん怖い。
だから、独りよがりの日記みたいな記事を書き続ける。
感情を書くことで、有名になることも共感を得ることも何にも望まない。
ただ、自分のために書く。
そして、もし、誰かがその日記の一片を読んでくれて、その誰かの心の琴線に触れたのなら、感情を分かち合えたなら、その時は言いようもなくめちゃくちゃ嬉しい。
あ、これこそ名前のない感情なんだけど。
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