醜いピースは
少しセンシティブな内容が含まれています。
また、いつものnoteのような柔らかさに欠けてしまうかもしれません。
ご了承ください。
「あなたって、何でも記録に残したがる人だよね」
何かと鋭い友人があるとき、たわいもなく言った。
わたしは常に記憶の片隅にある言葉を、感情を、ふいに頭の中で蘇らせるたびにその鱗片をかき集めてノートに記している。
わたしのスマホのメモには、それらの断片的な言葉のみがたくさん積もっている。
そして時々そのメモを読みながら、断片的な無数のピースをはめていき、ちゃんとした記憶がある辺りからの僅か20年に満たない程の人生の絵画を読み解こうとする。
ピース、一つ一つに特別な意味なんて無い。
それらが間違わずに収められるべきところに収まってやっと一つの絵画が出来上がるのだ。
しかも、出来上がった絵画すらその描かれたものの意味を完全に知ることなんて出来ない。
だから自分を納得させるための解説を捻り出して何とか自分を落ち着かせるのだ。
意味なんて、いつだって後付けだ。
『わたしに生きる意味などあるのだろうか』
小学生から高校生までのわたしが最も多く手帳に殴り書きをした言葉だ。
この問いの正解を見出すためには、まずその"意味"とはどんなことなのかを分からなければならない。それなのに、決して定まった答えをわたしは見ることが出来ない。
だって、自分を許せないから。
わたしは小学生の時からずっと今に至るまで、「自己嫌悪の塊」だった。
自分の容姿がとにかく嫌い。性格が嫌い。発する言葉、その話し方。全てが嫌い。
鏡に映る自分の姿を直視出来なくて、鏡の前を通るときは必ず目を塞いだ。
醜い形姿を直視してしまったら、また自分に問い続けるあの言葉が溢れ出して止まらなくなってしまう。『おまえはどうして生きているんだ』
その自己嫌悪を創り上げたいくつものピースの中でひときわ大きなピースはたった一つの言葉だった。
幼い頃、引っ込み思案だったわたしは誰かと目を合わせて話すことも出来ずに、オドオドと一人でいるような子だった。
友達が上手く出来ない。その上、要領が悪くていつも誰かしらに迷惑をかけてしまう。
母はそんなわたしが嫌いだった。
本当は心配だったのかもしれない。もしくは、双子の姉に比べて明らかに劣るわたしが見ていて辛かったのかもしれない。
それなのに、決して「あんたが嫌いだ」とは言わない。
その代わりにこう囁いた。「わたしはあんたが恥ずかしい。」
わたしが子どもであることで母に恥ずかしい思いをさせている。
思わず咄嗟に出た言葉だったのかもしれない。
それでも、嫌いよりも鋭い切っ先をもつその言葉は、わたしのノートの2ページをあの言葉でびっしりと埋めさせた。『おまえはどうして生きているんだ』
死んでしまいたいと叫ぶ夜は、素直に涙が溢れた。それなのに、『わたしはどうして生きているんだ』とノートに何度も何度もぐしゃぐしゃな字で書きなぐる夜は、瞬きすら忘れて乾燥しきった目からも生理的な涙すら出てこないほど枯れていた。
「死にたいんじゃない、生きていたくないの。」
いつのまにかこの世に生きていて、それなのに生きる意味を問いながら、自分を好きになれずに許せないまま生きていく方がよっぽど絶望的だ。
このままのわたしで生きたくない。このままのわたしで生きていくくらいなら、このまま息が止まってしまいたい。みんなが寝静まった夜、手近にあったタオルを首にかけて思いっきり首を絞めた。キュッと息が止まって血がカッと頭に登る。喉の奥がチカっと酸っぱくなった。
そのうちに手に力が入らなくなってタオルは弱まって、それだけ。
その先をいく勇気は無かった。
死ぬ勇気もないくせに、生きる意味すら見出せない。それでも死ねないなら、少しでも自分というものを生きていける存在に変えてしまうしかない。
生きる意味を探すために、一つの言葉も漏らさずに感情を書き取ることを始めた。
切り裂かれるような酷い言葉も、自分に対する嫌悪の感情も、やらなければならないという自分に対する叱咤も。未だに直視したくない言葉を、心に浮かんだものは一つ残らず乱雑にノートに書き取っていった。
書くことは次第に心の拠り所に変わっていった。
自分が受け止めきれない言葉をもう1人の誰かにそのまま投げつけてしまえるような場所だった。
そうやって自分の生きていたくない感情を騙して、生きる意味を探す。
決してポジティブなやり方ではないけれど、それでも書くことで少しだけ痛みの重荷をノートに預けることが出来た。
書くことは本当は勇気がいることだ。
記録に残すとは、鏡写しの醜い自分と正面から向き合うことだ。
断片的なボロボロのピースを順序もバラバラに書き散らしていく。そこにその先にある完成図など見えていない。そのピースが出来上がりの絵のどの部分を担うのか、それとも必要ないとゴミ箱に投げ捨ててしまうようなピースなのか分からない。
それでもそうやって、ありのままの汚さと純粋さで描いたピースをかき集めていくしかない。
いつかそのピースを紡いだ絵が完成するだろうか。その頃には、その絵を見てわたしは何と呟くだろう。
どうして生きてきたのかの理由が分かるだろうか。
大人になって今、過去の日記を手にしてめくってみても、過去のわたしの苦しみぬいた文字の羅列は今となっては懐かしさの対象でしかない。
もう、胸が締め付けられることも涙を流すこともなくただ淡々とページをめくる指が進むだけ。
でも、それがいいんだと思った。
その記録がある限り、わたしは過去の自分に会い続けることが出来る。
そして、いつか過去のピースを取り出してその違いに気づくんだろう。
「どうしてお前は生きているんだ」という問いのもつ意味と色彩の違いの移り変わりに。
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