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ハズレモノ 2

「ねぇ、ママ。あれ、綺麗だね」ソウタの指の先には、レジを通り抜けた入り口にある花屋の店先の色とりどりの花たちがあった。
それぞれが違う色みで少しずつ違う形の個性を持っている。こっちのアジサイは紫っぽくて、あっちのアジサイは白やピンクで出来ている。
「いらっしゃいませ。どれになさいますか。」
気づけば、ソウタの手を握りながら、思わず花たちの前で立ちつくしていた。
「ソウタ、どれがいい?」目を輝かせながらしばらく花を眺めていたソウタは、ひとつのアジサイを指差した。一番ムラサキの発色が綺麗に映えていたアジサイ。「ぼく、このムラサキが好き」店員さんは、指さされたアジサイを素早く抜き取り、「お待ちくださいね」と笑って奥へ消えた。

ソウタの好きな色を聞いたのは、初めてだった。
「ソウタはムラサキが好きなの?」「うん。レンジャーもムラサキレンジャーがあればいいのにって思ってるよ」
ムラサキ色のヘルメットを被って決めポーズを決めるソウタをふいに想像して、思わず頰が緩む。
「ムラサキレンジャーって、ソウタにぴったりだよ」

花屋にいると気分が明るくなる気がした。
胸のつっかえが目の前の色とりどりの明るい花たちに触れて、すっと落ちていくような、そんな気分。
ここでは美しい色しか目に入らない。
花びらのところどころ茶色に変色して枯れてしまったユリの花が数輪、店の端のバケツに投げ込まれている。
醜い色になった花たちは目に見えないように取り除かれる。

「お待たせしました。」
利口にみな揃って綺麗な色を保った花たちが並ぶ店先で、可愛らしくラッピングされたアジサイを受け取って、もう一度ソウタの手を強くぎゅっと握った。
買い物袋をどさりとテーブルの上に置くと、抱えて持って帰った花の綺麗な包み紙を丁寧に剥がしていった。
「ソウタ、お花きれいだねぇ」真っ白な小さめの皿のような花器に、ムラサキの紫陽花をいけていく側で、ソウタの興味はもう紫陽花からはとっくに逸れていて、ソウタは再放送のアニメに釘付けになっていた。

まな板にニンジンをのせてトントンとリズムよく切るとニンジンはコロコロパタンと倒れていく。少し手間だけど、お花の形になるように切り込みを入れておいたから、包丁を進めるたびにたくさんのオレンジのお花がまな板に咲いていく。小さい頃はこれが楽しくて、何度も母にお花のニンジンを切らせてもらったのを思い出した。
小さいときから、料理が好きって言うと、あら、えらいのねって必ず褒められた。でも、わたしを虜にしていたのは、凝った料理が作りたいとか、作った料理を食べた誰かの美味しいという声よりも、色とりどりな食材を切って、混ぜることがお絵かきと似ていると思ったことだった。
料理はパレットの上で絵の具を混ぜるみたいだ。
剥いたジャガイモの黄色とニンジンのオレンジ。カレールーの茶色。カレーになったらすっかり全部が茶色に見えてしまうけど、もともとはこんな鮮やかな色たちからできてるんだとソウタにも知ってほしい。

「ソウタ〜?ちょっと来てごらん?」
「ソウタ〜?」
まな板にたくさんのオレンジのお花たちとコロコロした黄色のジャガイモを並べて、リビングに向かって声をかけてもソウタの返事は無かった。
そういえばさっきまでついていた再放送のアニメの音も聞こえない。ソウタに何かあったのだろうか。
一気にヒヤリとした緊張が走った。

慌ててリビングに駆け込むと、ただテーブルに向き合って佇むソウタの後ろ姿が見えた。
何かに熱心に手を動かすような仕草で、後ろからバタバタと大きな音を立てて駆け込むわたしの足音すら気付いていない。
「ソウタ、どうしたの?」
そっと注意深くソウタの丸まった後ろ姿に声をかけた。
覗き込むのは盗み見をしているようで悪いと少しばかりの罪悪感を覚えながら、ソウタの手元に目をやると、そこには綺麗なムラサキ色のアジサイが咲いていた。
ムラサキ色のひし形が4つ重なって、ひとつの花になることをソウタは知っている。
「ソウタ…?キレイなアジサイだねぇ」
アジサイという言葉に反応したのか、ちょうど最期の一枚の花びらを塗り終えたのか、ソウタは「できたー!」とクレヨンを勢いよく放って後ろを振り向いた。
「…ママ?ママ、何で泣いてるの?」
揺らぐ視界の先に、アジサイが咲く画用紙を持ちながら心配そうにわたしを見つめるソウタがいた。
ムラサキ、青、緑、ピンク…
目の前の花器にいけられたムラサキ色のアジサイが、ソウタの目にはいろんな色の混ぜあいに映っている。
色とりどりのクレヨンを使ってソウタが初めて描いた絵だった。
一本だけ仲間外れに短くなったくろのクレヨンは今日は箱に収まっていた。
「ソウタ…えらいねぇ。アジサイ、描いたんだねぇ。クレヨン色んな色使って描いたんだね。」
ソウタは不思議そうにわたしを見上げて、「アジサイ!上手でしょ?」と笑った。
ソウタは絵を描けた。ちゃんと色んな色のクレヨンを使って絵を描けた。
真っ黒な絵じゃなくて、何色もクレヨンを使って、綺麗な絵を描けた。
「真っ黒な絵を描く 子供の心理」と毎晩毎晩真っ暗にした寝室の中で検索したワードが頭に浮かぶ。
強すぎるスマホの光が目の奥でチカチカとすみつくように、「精神状態不安定」の文字が泳いでいた。
でも、違ったのかもしれない。ソウタが保育園で真っ黒な絵を描くのは、違う理由がある。
きっと、そうだ。

「ママ!カレーまだ?ぼく、お腹空いたよぉ〜」
待ちきれないようにソウタが出す甘えたような声にようやく我にかえった。
「そうだね。すぐ作るからね。もうすぐだから待っててね」
まな板の上の色とりどりな野菜をざっと鍋に入れて、かき回した。早く出来上がるように出来るだけ強火で。
カレンダーの7にぐるりとつけた真っ黒な丸を見つめながら、グルグルとお鍋をかき回す。
明後日は、保育園の「お絵描きの時間」だ。
ジャガイモは煮崩れるからかき回してはいけないよと昔の母の声に耳を塞ぎながら、その手は止まらず、勢いよくカレールーのブロックを鍋の中にポチャポチャと落とした。
早く、ソウタがお腹を空かせている。

「ソウタくんのお母さん!これ、先週のお絵描きの時間に描いたお絵描きです。」
「ソウタくんのお母さん…?大丈夫ですか?」
思わず視界がぼうっとした。
ソウタの担任の先生が心配そうにわたしの顔を覗き込んでいたのにようやく気付く。
「あ…先生。あの…。」いつものような機嫌のいい明るい声が喉から出なくて必死で取り繕う声はガタガタと震えていた。
「ソウタくんのお母さん?どうしたんですか?体調が悪いんですか?大丈夫ですか?」
「ソウタは…どうして保育園では真っ黒な絵ばかり描くんですか?どうしてあの子は…そんなに黒い絵ばかり…。ソウタは楽しそうに絵を描いてるんですか?」
「今週のお絵描きの時間」の帯の下に並べて掲示されたたくさんの色とりどりの絵たち。
その中のソウタの絵は、真っ黒のクレヨンで塗りつぶされて、いつものように一際目立っていた。
担任の先生は、ようやくわたしが顔を青くしている理由に気付いたように、眉尻を下げて困ったように笑う。
「お母さん。焦らなくても大丈夫です。ソウタくんなりの芸術があるんでしょう。ソウタくんは楽しそうに色塗りをしていますよ。そのうち、ソウタくんも色んな色が塗りたくなりますよ。」
初夏の頃、ソウタは家ではあんなにたくさんの色を使って綺麗なアジサイを描いていたこともあったのに。家ではたくさん色を使ってお絵描きするのに。どうして、保育園では真っ黒な絵ばかり描くんだろう。

「あ、ママー!!」ミミちゃんが丸めた絵を持って駆け寄っていく先に、ソウタの友達のミミちゃんママの姿が見えて、慌てて顔を背けた。
「ミミね。この前はウサギの絵を描いたの!先生に上手だねって褒められたよ!」
チラと見えた絵の中に、ピンクの丸に不器用な半円の耳が生えたウサギがミミちゃんみたいに笑っていた。
わたしの手の中の筒状の真っ黒な画用紙は、じんわりと湿っていく。
「あ、ママー!今日は早かったね!」
「先生。ありがとうございました。また明日」
駆け寄ってくるソウタの手を乱暴に握って、園の門を押し開けた。遠くでママ友たちが談笑している声が聞こえる。
「ママどうしたの!ママどうしたの!」
今にも泣きそうなソウタの声が耳に響いて、真夏の蝉みたいな雑音に聞こえた。

どうして、保育園では真っ黒な絵しか描いてくれないの。
わたしが悪いの?わたしがお母さん失格だから、ソウタはストレスを抱えているの?
「ねぇ、ソウタ。保育園のお絵描き、楽しい?」
「ママ…どうしたの。」ソウタの声は震えていた。
いつも話すときはちゃんと合わせる目線が今日はうまく合わない。
「ぼく、絵を描くの、好きだよ。楽しいよ。」
最近やけに陽が落ちるのが早く感じる。コンビニの「おでん」の文字がしっくりくるようになったから、そろそろ冬に近づいているのだろうか。辺りはもう一面薄暗くてついこの前まで見えたはずの坂の向こうの電柱は見えない。
もしかしたら、ソウタに見える世界はこんな色なのかもしれない。
「ごめん。ソウタ。」
視界がじんわりと曇って、ボヤボヤした街灯の灯りがやけに眩しかった。
ソウタの手を握る反対側の手で握りしめた真っ黒の絵にポタリと雫が落ちて、まだら模様をいくつか描いた。
「ごめんね。ママ、泣いてごめんね。」
「ママ大丈夫?ソウタ、ママの味方だよ。」

すっかりと寝静まったソウタの横顔は、何度見てもかわいい。
何度も優しく頭を撫でながら、どうかこの子が幸せな人生を歩めるように見えない神さまに祈った。
音を立てないようにそっとソウタの側から離れると、何かが足にコツンと当たる。
部屋の端っこに置かれたソウタの通学カバン。
おもむろにチャックを開けると、ぐちゃぐちゃに入れられた今日のハンカチと丸まったオリガミ、そしてなぜかそれだけ几帳面にゴムで留められたクレヨンを見つけた。
ゴムを外して蓋を開ける手は小刻みに震えてカタカタと小さくクレヨンが鳴る。
まだ長いクレヨンたちの中に仲間はずれのようにひとつだけ短い、くろのクレヨンがみにくいアヒルの子みたいで、それをそっとつまむと首を絞めるみたいに指先に力を込めた。

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