見出し画像

寂しいという感情に向き合う

特別言語化して書かなくてもいい事をあえて書いてみるとしたら。
「寂しいという感情に向き合う」ということが、今までもこれからもわたしの人生にとってひとつのテーマなんだろうと思う。

わたしはずっと寂しかった。
近くに家族も友達もいるのに、物事がよく分かるようになった頃から心のどこかでずっと寂しかった。


最初に寂しいと思ったのは、いつの間にか「死」という概念を知って、未来にいつか今の家族がみんないなくなることを理解したからだ。
小学生くらいだったと思うけど、自分が死ぬことよりも親しい周りの人たちがいなくなる恐怖がずっと頭がグルグルしていて、大人になったらその恐怖に耐えられるようになるのだと思っていた。
「死」という概念について誰かと語ってみたかったけど、まだ幼い私に語れる誰かも語るための語彙力もなくて、そっと心にしまっていた。

ある程度大人になって同じことを考えても、親も祖父母もあの頃よりもさらに歳を重ねて老いていっているわけで、あの頃よりもよりリアリティが増していて、同じように怖いと思っている。
大人になったから怖くなるわけじゃなくて、色んな感情を抱きながらも日常を生き続けなきゃいけない覚悟が出来るだけだ。

「悲しみを背負っている時に、新しい家族というもう一つの拠り所が出来たら乗り越えられるのだろうか」
そんなこともずっと考えていた。
結婚適齢期になった今のわたしも、そう思っている。そんなこと口に出さないけど、結婚願望を持つ一つの大きな理由でもある。

次に寂しいと思ったのは、「愛してくれる誰かはいるのか」ということだ。
高校生くらいの時、わたしは必死に愛を求めていた。
それは、恋愛の愛じゃなくて、誰かにありのままを認められて愛されたいということだ。
認められるということと愛されるということはイコールで結ばれていた。
勉強でもそれ以外のことでも結果を残さなきゃ、自分に価値がなくて愛されないと必死で思っていた。
家族がわたしにかけてくれるお金とか協力とか、そもそも生きている理由として、結果を残さなきゃいけなくて、結果を残すわたしだからこそ愛される権利を得ることが出来ると思っていた。
「無条件の愛」という言葉があるけれど、それを無意識に理解して受け取っている人は本当に幸運だし強いと思う。
ただ、わたしは「無条件の愛」なんて信じていなかった。
愛されるために、生きる理由を得るために、認められるしかなくて、認められるために当時の目標だった、「目指す大学へ合格すること」しかなくて、毎日気が狂うくらい勉強していた。
全てを捨ててでも、目標を達成することが大切だった。
その反面、自分の身体にムチを打つだけでちゃんと休むことも出来なくて、結局、鬱になった。
毎朝、電車に飛び込む妄想をしていたし、眠る時はこのまま意識がなくなって目覚めなければいいと思っていた。希死念慮を抱えながら、それでも生きるためには勉強するしかなくて、次第に読む文字も日本語じゃないみたいにぐにゃぐにゃしてきて、朝の電車で覚えた英単語も1時間後の小テストでは全て綺麗に忘れちゃってひとつも書けなくなるくらい集中出来なくて、成績も全く上がらなくなって、絶望してまた死のうとするみたいなループだった。
色々あったけど結局、受験は何とか上手くいって、その時に「勉強を頑張ってきてよかったね」ってたくさんの人に言われたけど、わたしが頑張ってきたのは勉強じゃなくて、自分の心の闇に押し殺されないように抗うことだけだった。

「自分を愛するのは自分だよ」って色んな人から言われるたびに、うんざりしていた。
自分という存在をいちばん許せないのは自分だったからだ。
誰かに認めてもらえない自分に価値はなくて、
「わたしはわたしを許せない」って呪いみたいに呟いていた。
だから、自分で自分を愛するとは、憎くて仕方がなくて打ちのめしたい敵を抱きしめるのと同じことだと思っていた。

でも、大人になると、自己肯定感が本当に大切だということが理解できた。
わたしは今でも自分に完全な自信を持ててはいないけど、「大丈夫だよ」とよく自分に言い聞かせている。
自分という空っぽの船を自己肯定感が操縦して進んでいく感覚になることがある。
自分で自分の船の舵を切らないと前へ進んでいけないし、誰も代わりにそのオールを漕いでくれるわけではない。
何度か人生の大きな挑戦に立たされる度に、観客が沢山いる大きな舞台に何も身につけずに1人きりで立っている気分になった。
結局生まれたときからみんなひとりぼっちで、
自分のことをなだめて抱きしめて、前へ進ませようと出来るのは自分自身しかいないってこの歳になってようやく分かってきた。

「無条件の愛」は、親とかパートナーから注がれるものでもなくて、自分が自分自身に注ぐしかないものなのかもしれない。
そう思ってから、「誰かに愛される」ことよりも「自分が自分を愛せるか」を優先した方が良いのかもしれないと思った。

そうやってちゃんと理解出来るようになれば、実は家族から「無条件の愛」を注がれていたって分かった。いつか落ち込んでいた時に、「あんたが元気でいてくれないと悲しい」って祖母に言われた時、元気でいなきゃって使命感みたいに思うんじゃなくて、言葉通りの心配を受け取ることができた。

そして、ある程度大人になってから寂しいと思ったのは、「わたしは恋愛することができるのか」ということだ。
これは恋愛の意味なんだけど、わたしは人よりもかなり、恋愛にフォーカスが当たらない人生なんじゃないかということに気が付いた。
みんな当たり前みたいに恋愛経験を積んで、ドキドキする感情とか、恋愛という意味で愛したり愛されるという経験を知っていて、もっというと誰かの毎日にいる存在になることが出来て、羨ましかった。
周りの友達が当たり前に出来ていることを経験したことがない自分がすごく劣った人間のように思っていた。

わたしが誰かに捧げたり、誰かから受け取る愛は「慈愛」で「恋愛」ではない。
いつからかそうやって思い込んで、どうしたら「恋愛」が出来るようになるのかを本気で悩んでいた。
自分の課題は容姿なのか性格なのか、キャラなのか態度なのか、それとももっと根深い問題なのか。
『「恋愛」って、感情でするものだよ』って言われたことがある。どうしても心が動かないと出来ない。
わたしは昔のトラウマから随分と長く「好き」という感情を心の奥深い鍵付きの部屋に閉じ込めてきた。
中学生の頃、たまたま落としてしまった友達との手紙を拾われて、親に片思いをしていた人がいることを知られてしまった。その時に、家族の前で「好きな人なんて作るな。そんなことをしているから成績が悪いんだ。そんな浮ついた気持ちを持つんじゃない。」って叱られたことがある。
大人になったら今から笑い飛ばせることが、思春期の心にはダイレクトに突き刺さってしまった。
その時から、わたしは好きという感情に罪悪感を抱くようになって、好きという感情を抱いたものを誰かに知られると奪われるんだと知ってしまった。
それ以降、人前で感情を出せなくなったし、例え好きなものが食べ物とかアーティストであっても「好き」ということを一切言えなくなってしまった。
全て、表に出したら奪われると思っていた。

でも、大人になって、周りの友達に自分の好きなことを伝えてみたり、文章を書くことで素直に自分の感情を吐き出してみたり、文章を通じて繋がった友達に自分が本当に好きな存在や感情を伝えてみても、誰も笑ったり否定しないでいてくれた。
好きになった人にも好きだと伝えてみた。
その後の関係はどうであれ、ちゃんと笑わずに受け止めてもらえることが多かった。
そういう優しさをたくさんもらって、最近やっと自分の好きなものを素直に好きだと言えるようになった。

それでもやっぱり、恋愛には身構えてしまう。
恋愛の刹那的なドキドキ感は麻酔みたいに脳を狂わせるから、一瞬は思考よりも感情が先走りするのかもしれないけど、ふと我に返った時に、好きだという輪郭のない柔らかな感情が、相手に通じれば幸せなのかもしれないけど、人と人の間で起こる感情なのだから、時にはそれが形を変えて相手を傷つけたり、自分が傷つくことが怖いのかもしれない。
きっとそれが恋愛の醍醐味だし、経験によってそれは何でもないもののように思えてくるものなのかもしれないけれど、得体の知れないその感情を未だ上手く扱えない。
寂しさを埋めるために誰かと繋がろうとすることにも気後れする。

今までもなんだかんだ色んなことがあって、みんなが経験してるような感情とか体験とか何となくひと通り分かった気でいた。
結婚を考える歳になってきて、「恋愛向き」とか「結婚向き」とかそんな言葉を聞いて、どんな人と結婚するのが良いのか分かるようになってきた。
でも、「誰と生きて行きたいか」って単純に考えたときに、その理屈が揺らぐ。

最近自分の年齢に気後れし始めた。
昔ほど結婚を急かされない世の中ではあるものの、自分の気持ちがまだよく分からない煮え切らなさと、それなのに「周りの人たちと同じでいたい」と思ってしまう自分の弱さと、いつかこの人と生きていこうって思える人と出逢えるのかという一抹の期待と、まだ自分が未熟だというのに大丈夫なのかと思う気持ちと色んなものが混ざり合って、寂しくなる。

寂しさとは、何かが足りないときに感じるものらしいけれど、満ち足りているときにもまだ余白を見出したくて寂しさを作り出すものらしい。
今も良く考えれば充分満ち足りているというのに、寂しさという感情と向き合おうとしているわたしは、何を手に入れれば寂しさのことを忘れてしまうのかを必死で探している。
寂しさとはコップの中に水を入れるように別の何かで埋めるものなのか、それとも欲しいものをお金で買うように別の何かに変換してしまうものなのか。
そもそも向き合わないほうが良い感情なのかもしれない。

最近、泊まりをするひとり旅に出かけてみることが多い。
今までは、ひとりの寂しさが怖くてなかなか挑戦する気になれなかった。特に温泉旅館とか、経験則的に誰かといった方が楽しそうな場所には行くのを躊躇していたけれど、ひとりでじっくり何かを考える時間が欲しくなって、あえて温泉旅館にひとりで旅行してみた。
友達との旅行のときみたいに、夕飯の時に美味しいものを共有したり、お湯に浸かりながら女子トーク出来ないことに少し寂しさは感じたけれど、それをなんでも好きにできる自由の楽しさが上回った。
誰にも気を遣わずに好きなときに好きなものを食べて、好きなときに寝て、気が赴くままに歩いて、自分が好きなものを自分だけで堪能することが意外と楽しいことに気付いた。

寂しいのにひとりでいたいっていうアンビバレントな感情を自分の中でどうやって満たせばいいのか分からない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?