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前世をみてもらってから幸せについて考えた #呑みながら書きました

最近、ちょっとしたご縁があって、前世をみてもらったことがある。
わたしは割とスピリチュアルな話題が好きだ。
霊は見えないし、透視とかオーラが見えるとかそんな能力は何もないけど、人よりも少しだけ感受性が強いらしく、何かを感じ取ることがよくある。その違和感の正体がよく分からないからこそ、今生きている世界とは違う霊的な次元が存在していることを信じている。

でも、そういうスピリチュアルの話題は、信じ込んだり陶酔するべきものではなくて、「違う次元から見た自分を知ってみる」あるいは、「違和感の正体の答えのひとつを教えてもらう」くらいの感覚でいいと思う。

それで、前世を見てもらうと、どうやらわたしは「こんなにもすぐにはっきり分かる人は珍しい」と言われるくらい、前世がはっきりと分かるタイプの人らしい。(あくまでその方曰くだ。)

〜ここからは、教えてもらったことを羅列する不思議な話になるので、スピリチュアル系が苦手な方は流してください〜

わたしから見えたものは、防空壕と差別に怯える一家、そしてわたしはその一家を匿う男性で、その一家の娘さんと恋仲だったらしい。
時代は世界大戦の頃。防空壕と言っても、日本とは違うどこか外国の地下室みたいな場所。やがてその一家も、それを匿っていたその男性も捕まって、酷い仕打ちを受けたらしい。
けれど、その中でもその男性は、恋仲である女性やその一家を守ろうと最期まで闘っていたらしい。けれど、守れなかった。

そして、「あなたの前世のテーマは愛する人を救えなかったということで、その精神は今も引き継がれているものがある。あなたは、失うことが極端に怖いでしょう?」と言われた。

そうなんだ〜って聞き流すべきものだと思いながらも、心当たりにちょっと鳥肌が立った。
確かにわたしは「失う」ということを極端に恐れてきた。

一昨年、あきらとさん達が主催で「幸せとは」というテーマで書いた作品を集めて、本にしてくれる企画に参加をした。その時にわたしが「幸せとは」というテーマを見た瞬間、浮かんだ言葉は「失わないこと」だった。
そして、『罪』という作品を書いた。

https://note.com/moon2125/n/n543988477878

そのあらすじは、主人公の男性は「失うくらいなら、最初から愛さない方がいい」という思想の持ち主で、同じ思想をもつ女性と、その思想を保ち合うために、全くお互いに干渉しないことがルールの共同生活を始めた。
しかしそのうちに、互いの感情に触れて、干渉しないというルールを破り始めてしまい、やがて2人は愛するという感情を知ってしまう。
愛するほど今まで知らなかった幸せを感じ、同時に、失う恐怖に溺れていく。
そして主人公は2つの罪を犯すことになる。
その罪とは、「愛という感情を知ってしまったがゆえに失う恐怖と失った失望感に怯えること」そして「愛した相手よりも先に旅立ってしまったことで、相手に愛するものを失うという悲しみを与えてしまったこと」だ。

「幸せとは」=「失わないこと」が結びついた瞬間、スマホのメモ帳に文字を打ち続けて、行きと帰りの通勤電車に乗っている合計2時間で作品を書き上げた。
一人称が「ぼく」の人物が自分の人生や価値観について語っていく構図も、語る内容も何もかも頭に流れてくるまま綴ったこの作品は、まるで「創作」ではなくて「日記」だった。
これを書き上げた後、やっと成仏した〜って思った。
何が成仏したのかも、どうしてそう思ったのかも分からないけど、とにかくこの思考を作品に昇華したかったのだ。


わたしはいつも無意識に、今が幸せだということじゃなくて未来に失う恐怖ばかり考えていた。
小学生の頃、一緒に住んでいる大好きなおじいちゃんやおばあちゃんの誕生日が近づく度に、寝る前にぐるぐると考えごとをしては、「誕生日が来るたびにひとつ歳をとる。だから、ひとつ死に近づいていくのが怖い」と言って、夜中に大泣きしては母を起こすような子だった。
ハッピーバーズデーってお祝いする楽しい日のはずなのに、いなくなることに怯えているなんてめちゃくちゃ失礼だしネガティブな子どもだった。
でも、今もそんなに変わっていない。
大好きだから失いたくない。一緒に住んでいなくて、夏休みにたまに訪れるような、いなくなったらどうしようって思わないような関係だったら、こんなにも怯えていなくても良かったのかもしれないと思っている。

「終わりがくるからこそ、今を後悔しないように生きるんだよ」
夜中に起きてきて同じことでわたしが泣きついたとき、いつも母はそうやってわたしに言い聞かせていた。
いつか失うと分かっているからこそ、一緒にいられる今を大切にできるのかもしれない。

作品の中でも、「ぼく」に先立たれて残された恋人は、「ぼく」の墓に泣き縋りながらも、「あなたといられて幸せでした」と幸せを感じている。
この結末だけは、絶対にそうしようと思って書いた。

そういえば、恋愛だってそうだった。
わたしは、この人のことが恋愛として好きなんだろうなって気付いたとしても、その人が普段何でも話せる友達だったとしたら、「何でも話せる関係」を失うことが怖くて踏み出せなくなる。
恋愛とは、相手のことを独り占めして深く知れる関係になれる代償に、その関係性は、一生続けられるか終わるかのどちらかの結末を迎えることになる。
友達だったらその人を独り占めすることは出来ないけど、疎遠にはなるかもしれないけど、関係性が終わることは無いんじゃないかと思うのだ。
そういう自分理論を信じて、見逃した恋心がいくつかあるのだ。

でも、未来のわたしから言わせてもらうと「本当に好きだったとしたら、ちゃんと自分の気持ち言っとけよ〜」ってバシバシ背中を叩きたくなる。
そういうのって必ず後から、結末は分からないけど、伝えておけば良かったって後悔する。
だって、伝えたことで何か気まずくなっちゃって何でも話せる関係性は終わるかもしれないけど、それは清々しい失い方だし、ちゃんと伝えられたこと自体は絶対後悔しない。
それに、「誰かから好意を伝えてもらえる」ということが、その人の自信のカケラになるのかもしれないし。
むしろ、それを自信にしてくれる人であろうと信じるからこそ好きなんだと思うけど。

わたしは「失うことが極端に怖い」と思っていることを知ってから、この感情に正面から向き合うようになった。
「失わないこと」と「幸せ」を結びつけなくなった代わりに、「失いたくないと思うこと」が「幸せ」なんじゃないかと思う。
ずっと一緒にいたいとか、これだけは死守したいと思えることは、どんな相手やものにでも働く感情ではないとしたら、それを痛いほど知れることが幸せで、またそれを守ろうとすることが幸せなんだろうか。

人生まだ24年間しか経験していないのに、幸せに対する答えを出すには早すぎるけれど、
失う恐怖に怯えるほど、わたしの「愛する」という感情は深くて温かいのかもしれない。

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