卑怯者になりたくない
母は嘘が何よりも嫌いだった。
小さい頃、わたしが小さな嘘をついただけで、ヒステリックになって怒られた記憶がある。
小学生の時、わたしは姉と母と共に近所の先生がやっている習字教室に通っていた。「いくら綺麗で賢い人でも字が汚かったから一気にがっかりする。字は人を表すんだから。」というのが母のモットーで、今でも母は毎日習字の練習をしていて、母の字は誰に見せても綺麗だと褒めるような美しい字だ。
そんな真剣に字を習いに通う母とはうらはらに、小学生のわたしにとっては、字を書くだけの1時間は退屈で仕方がなかった。よく毛筆で字を書きながらも居眠りして手に墨汁をつけてしまうことなんてしょっちゅうだったし、硬筆は3枚も書けば一生字なんて書きたくないと思って鉛筆を放り投げるほど不真面目だった。
そんなある日、作品展に向けた硬筆の作品を書いている最中に、いつもの通り、作品を書くことにすっかり飽きてしまったわたしは、先生が見ていないことを確認した隙に、隣に置いていたお手本をこっそりと下に引いて何文字かそのまま書き写した。
それでもその一部始終を見ていない先生は、書き写した字を見て、上手に書けたねー!と褒めて、その日の習字教室は何事もなく終わった。
わたしは書き写した字を褒められたことに対する後味の悪さを感じながら、母の顔色を伺ったけど、バレていなさそうだし、怒られてもいない。ただ、飽きて悪ふざけをしただけだった。
帰り道、母はいつも通りの態度で、今日学校であったことを話すわたしの話を聞いていた。
その日の夜、わたしは漢字テストの勉強をしていた。
母はいわゆる教育ママだったのかもしれない。
次の日学校で漢字のテストがある日は、漢字ドリルをもとにして母が作った手作りのテストを解いて、全問正解しないとその日の勉強は終わらないことになっていた。
その日はどうしても見たいテレビがあるのに、こんなテストをやらされているのは癪だった。さっさと終わらせると決めた矢先、どうしても分からない漢字が一つだけあった。でも、満点を取らないといつまでも勉強の時間は終わらない。
後ろで見張りをする母の目を盗んで、壁に貼ってあった進研ゼミの小学3年生で習う漢字がズラリと並んだ表を盗み見ようとした。カンニングだという意識は無かった。とにかく早く終わればそれでいい。所詮母が作ったテストだし、正式なテストでもないんだし。
壁に貼ってある漢字を急いで盗み見て何事も無かったかのように分からなかったひとつの空欄を埋めた。
そして、何事も無かったかのように、終わった!と母に提出をした。
すると、母は突然すごく冷たい目でわたしを睨んだ。「今、カンニングしたでしょ?見てたから知ってるよ。カンニングしたでしょ?」
わたしは内心、バレたと思いつつ、反射的に怒られるのが怖くて「見てない。カンニングしてない!」と嘘をついた。嘘をつくことに悪気が無かったわけではない。
でも、母を怒らせたら最後、その日は平穏でいられないことは分かっていたから、口から反射的に出た嘘だった。
すると母は突然すごい剣幕でまくし立てながら、わたしの肩をギュッと掴んだ。
「嘘つく奴は最低だ。本当に嫌い。あんたなんてうちの子じゃないわ。この卑怯者!」
何度、この卑怯者!と叫ばれただろうか。
「あんたが今日、習字教室でお手本を書き写したことも見ていたよ。それでもやってないって言うの?どうしてそんなに卑怯な真似をする?そんな卑怯者に育てた覚えはないわ!この卑怯者!
あんたが恥ずかしいわ 卑怯者!」
全部全部バレていた。わたしが卑怯な真似をしたことも、それをバレていないからと隠そうとしたことも、やっていないと嘘をついたことも。
その日からわたしは母の中で卑怯者だった。
何をしても嘘をついていると疑われたし、卑怯者なわたしは、母にとってわたしが世間に対して「恥ずかしい子」である最大の原因のひとつだった。
でも、たしかにわたしのしたことは悪いことだったから、何の言い訳もしようがない。
その日から、わたしは嘘がつけなくなった。
母にはすごく感謝している。あの日許されなくて良かった。おかげでわたしは嘘をつかない大人になれた。
信頼を失ったら最後、取り戻せないことがあることも知ったし、わたしは決して卑怯な真似は出来なくなった。
怒られることが分かっていても真実を口にせずにはいられないし、遊びでつく嘘もすぐ顔に出るからめちゃくちゃ下手くそだ。
でも、良い嘘と悪い嘘の区別がつかない。
もちろん、誰かを傷つけないための嘘が「良い嘘」だってことも、それを上手く使いこなすことが必要だってことも理解している。
だから、誰かを傷つけないために、真実とは違うことを言うこともよくある。
本当は不必要な物を貰っても、それ、欲しかったのと言って相手を喜ばせるのは、嘘じゃなくて大人のマナーなんだろう。
その良い嘘が本当にその人を救うのか分からない。
嘘をつくことは卑怯者で、それはとんでもなく悪だということが刷り込まれた頭は、卑怯者にならないためには、全て嘘ではない「正」を口にすることだと信じ込んだ。
でも、何が「正」なのかが分からない。
悩み相談をされたら「うんうんそうだよね。分かるよ!」って共感するのがデフォルメだと思っていた。だって、相談するってことは、その子は誰かに話を聞いてほしくて、そして共感して慰めてほしいからって分かっているから。
相談してくれることは嬉しかったし、頼りになるわたしを演じていたかった。
例えそれが、共感出来ないことだったとしても。わたしは何とも思ってない誰かの悪口だったとしても。
「A子さんのこと、どう思う?」B子さんに唐突に聞かれたことがある。わたしは正直、A子さんのことは何とも思っていなかったから、「別に何とも思ってないよ」って言った。
けれど、その子はA子さんに不満を持っていて、A子さんを悪く言いたいことは分かっていた。それは、別に、勝手に言えばいい。わたしはその悪口に肯定も否定もするつもりは無かった。「悪口はダメだよ」ってわざわざ言っちゃうようないい子にもなれなかったから、そんなくだらない話を赤べこに化したようにただ頷いて聞いていた。
その頷きが肯定になる。
困るのはその後だ。A子さんに、「ねぇ、あの子わたしの悪口言ってた?」って聞かれた時だった。
確かにB子はあんたの悪口言ってたよ。
でも、「悪口を言っていたよ」って正直に言えばそれは告げ口で、「悪口を言ってなかったよ」って答えればB子の肩をもつことになる。
誰にとってもいい子で、何より卑怯者になりたくなかったわたしは、「別に言ってなかったよ」って答えた。それがA子を傷付けない良い嘘だと思ったから。A子は安心した顔をして、「本当に?信じるよ」と言った。
正しいはずのわたしがいちばんの卑怯者だった。
いい子になりたくて、どちらの肩も持ちながら、結局どちらのことも裏切ってしまいたかった。
A子のこともB子のことも別に嫌いじゃなくて、そしてどちらのこともどうでも良かった。
それなのに、割り切れないわたしがどちらにも嘘をつくいちばんの悪者だった。
あの日の「卑怯者!」というセリフが頭にぐるぐると回っていた。
正しいとは何だろうか。
未だに分からない。
自分の身を守るためについていい正しい嘘とは何だろうか。
卑怯者になりたくない。卑怯者になりたくない。わたしは誰も敵だと思いたくないし、誰の敵にもなりたくない。
そんな中立な奴がいちばん正義の顔をしながら、どちらにも少しずつ嘘をついて生きなきゃいけない奴だと知っている。
でも、それがいちばん世渡り上手なことも知っている。
自分を守るために必要な嘘もあって、嘘と共に生きていかなきゃいけないことも、それが正解にも不正解にも転がりうることも知らなきゃいけなかった。