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罪 #幸せをテーマに書いてみよう

ぼくは罪を犯しました。
今、きみが泣いているのはぼくのせいなのです。
かわいそうに。きみは不幸にも毎日涙を流して暮らしています。

幸せとは、何も知らないことだときみは言っていました。
何でも知りたい、どれだけでも欲しいという、欲望にまみれた周囲の人間を軽蔑しながら生きてきたぼくです。
恋なんて知らなければ、目が会うだけでぼくの体温をカッと上げるきみの一挙一動にぼくの心臓は揺れない。
愛なんて知らなければ、誰かの温もりに触れることなく毎日が過ぎていっても、ぼくは透明人間になったのだろうかと不安に思うことなんてない。
だからぼくは、きみと一緒に生きたいと思いました。
それが恋だとは思っていません。
ただ、同じ考えのきみと生きればぼくのその思想が保たれると思ったのです。
それが一番苦しむことのなく幸せに生きる生き方だと信じていました。

ぼくときみの暮らしは、見知らぬ人同士がたまたま同じ部屋に集められたかのような空間の中で営まれていました。
ぼくはきみについて何も知りません。
きみの好きな食べ物も、どんな風に生きてきたのかも。
きみもぼくについて何も尋ねることはありません。
お互いのことを何も知らないことがいちばんの幸せだとお互い信じているからです。

友人はみんなぼくの考えはおかしいと言います。好きな人のことなら知りたくなるはずだし、お互いのことをより深く理解して支え合うことが幸せなんだと言います。
愚かだと思いました。
そうやって深く理解するうちに依存していくのが人というものです。
次第に無くてはならなくなり、決して手放したくないという欲望が生まれる。
その欲望は、失う恐怖に怯える心を生むのです。
失うかもしれない恐怖と失う失望を彼らは知りません。
ぼくの幸せとは、そんな恐怖と失望を味わずにすむということです。

お互いに何も知らない。何も干渉しない。
それがぼくときみの生活のルールでした。
全てはぼくときみの幸せを確保するためです。

それなのに、いつかぼくが熱を出して悪夢から覚めた夕方、ぼくの額には生ぬるくなった濡れたタオルが置かれていました。
側には、むかれたりんごとラップのかかったほんのり温かいおかゆが乗ったお盆。
ぼくは激しい憤りを感じました。
ぼくのためにそんなことはして欲しくはなかった。それでも立ち上がることも出来ない気だるさと空腹に負けたぼくはおかゆを一口すすりました。りんごはみずみずしくてサクリと音を立てると口内はその甘さに痺れて少し痛くなりました。
気だるさとその僅かな痛みのせいでしょう。
ぼくはいつのまにか涙を流していました。
人生でぼくが知る限り二度目の涙でした。

ぼくがきみにお礼を言うことはありませんでした。その後もぼくはきみを空気のように扱い、きみのことを避けて暮らしていました。

ある夜にきみはぼくの目の前でうずくまって震えていました。
ぼくは一瞬驚いてきみに近づこうとした足を何とか止めてきみに背を向けました。
それなのに、きみの丸まった背中から抑え込まれた嗚咽が聞こえるたびにぼくの心は締め付けられるように苦しくなりました。
抱きしめてしまって、何があったのかと問いたい欲望がむせ上がってくるのを、必死にこらえようとするぼくの理性でとんでもなく頭がクラクラしました。
あの日出した熱のときと同じくらいの身体の熱さを感じました。

ぼくは自分を諌めて殺してしまいたいくらい弱い人間でした。
自分の理性に勝ちきれずに、後ろからきみを抱きしめてしまいました。
あまりに驚いて一瞬身体を震わせたきみを感じて、ぼくは激しい後悔を覚えました。
それなのに、ごめん。とほどこうとした腕をきみはそのまま握り続けてひたすらに涙を流していました。
それからどのくらい時間が経ったか分かりません。
きみを抱きしめているとその体温がぼくの冷たさに流れ込んできて、ぼくが抱きしめているはずなのになぜかきみに包み込まれている気がしました。
苦しかった。冷え切った身体で湯船に沈み込むような温かさに、何に対してか分かりもしない罪悪感と抗おうとする理性がドロドロに溶けてしまいそうな切なさが苦しくてたまりませんでした。
血を吐くように涙を流すぼくはいつのまにかきみよりも泣いていました。

あの日の晩、どうしてきみが泣いていたのか結局知ることはありませんでした。
それでも、あの温もりはきみを離した後もずっとぼくの身体にくすぶっていて、君から視線を逸らすことが以前よりもずっと苦しくなりました。
ぼくの頭は日に日にとうとう壊れてしまいそうなのです。

幸せとはなんでしょうか。
ぼく達はしだいに会話が増えて少しずつお互いのことを知って、どんどん不幸に向かっていきました。
きみのことが頭から離れなくなるたびにぼくはきみを失う恐怖と闘わなければならない。
だから、言っただろう。愛するとは、不幸の温床なのだと。

ぼくはふたつ罪を犯しました。
きみを置いて先に命が尽きたこと。
そして、死ぬ間際まで互いの愛おしさゆえに、失う恐怖という地獄にきみを陥れたこと。
だからきみは今、ぼくの棺の前で泣いています。
それなのに、ぼくはあの晩のようにきみを抱きしめることができません。

幸せとはなんでしょうか。
間違いなく不幸なはずのきみはどうしてか涙を流しながら微笑んでいます。
「あなたといられて幸せでした」と。

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