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ハズレモノ 完

壁から剥がれ落ちた楽しい画用紙のお絵描きを黒いグルグルが汚していく。せっかく綺麗にお花が咲いていたのに。せっかく綺麗に蝶々が飛んでいたのに。せっかく楽しそうにわたしとママとパパが笑っていたのに。
全てを水で流すという表現を大人になって知った。でも、そんな透明で綺麗なもので消せるはずなんてないんだ。掌を丸くして、折れるほど力を入れて綺麗なものを汚して汚して全部を見えなくしなきゃ。
「あけみ!何してるの!」ママの叫び声が聞こえる。ママが叫べば叫ぶほど、ぐるぐると汚す手は勢いを増していった。
だって、ママが笑ってくれないから。
パパが出て行ったあの日からママはわたしの絵を見て眉をひそめるようになった。
握りつぶすよりもまっくろに塗りつぶせば、もう何も見えなくなる。
乾いた声でママがカラカラと笑う。くろいクレヨンを見て楽しそうにママが笑う。


明るい光が目に飛び込むと、もうそんな季節でもないのに背中にびっしょりと汗をかいていた。
隣ではソウタがぐっすりと眠っている。ソウタの頭を優しく撫でると、さっきまで見ていた悪い夢が優しい渦の中に消えていく気がする。


「ソウタくんママ!ちょっとお話があるんです。最近ソウタくん、元気なくて。」
最近のソウタの様子に変なところは無かったはずだし、今朝もあれほどはしゃいで教室に入って行ったソウタの姿を思い出す。
「ソウタ、何かあったんですか?」
「実はこれ…。ソウタくん。お絵描きの時間に絵を描きたくないってじっと俯いているんです。」
先生から手渡されたのは、ソウタに配られた真っ白なままの画用紙だった。
「お母さん。ソウタくんに絵のこと、何か聞いたりしましたか?」

カバンの中にはティッシュに包まれた母親失格のわたしのまっくろな罪の塊が転がっている。
あの夜、わたしはソウタのくろのクレヨンをケースから抜き出した。
くろのクレヨンさえ無ければ、ソウタは真っ黒な絵を描かなくなる。描けなくなればいいと思った。
わたしは黙ってカバンの中の丸まったティッシュを握りしめた。
「ソウタには何も聞いていません。」

強張ったわたしの顔を見透かしたのか先生は優しくでも困ったように眉毛を下げて微笑んだ。
「ソウタくん。本当はお絵描き好きなんです。だから、お母さん。焦らないで。」
鼻の奥がツンと痛むのを少し上を向いてこらえながら、わたしも母親らしい笑顔を返した。
よそ行きの、綺麗な笑顔。
それが精一杯だった。

「ねぇねぇ、ママ!今日はね、翔太と鬼ごっこしたよ!ぼくめちゃくちゃ脚が早いから、翔太がすぐ捕まっちゃうの」
ソウタがわたしの手をギュッと握るたびに興奮していつもより高い体温が伝わる。
「ねぇ、ママ!今日のお昼寝の時間ね、みんななかなか寝なくておしゃべりばっかしてるから、ぼくが、みんな寝ようよ!って言ったらみんな静かになったんだよ。ぼく、すごいでしょ。」
「ねぇ、ママ聞いてる?」
キッチンで夕飯の準備をするわたしの足元にまとわりつくようにしてはしゃぐソウタはいつもと変わらないソウタだ。
「ごめん、ママちょっと疲れちゃって。」
力なく笑うわたしにソウタは慌てて「ママ今日は絶対早く寝るんだよ!」と急かした。
こんな気遣いが出来るようになるほどソウタはちゃんといい子に成長している。
それなのに、今日はソウタの凛々しい笑顔がやけに胸につかえた。

「おやすみ」
ソウタが蹴っていた布団をそっと被せると電気を切ってしまったリビングに忘れてきたスマホを取りに戻ろうと立ち上がった。
その拍子に足がもつれてよろよろとバランスを崩して慌てて近くの壁に手をついた。
保育園から持って帰った何本もの画用紙の筒がバラバラとわたしの足元に降りかかってきた。
ソウタが毎週毎週お絵描きの時間で描いてきたソウタの成長の証。
大切に残しておけば、ソウタが少し大きくなった頃、昔はこういう絵を描いてたんだよって二人で笑いあって思い出話に花を咲かせるための絵。
画用紙の倒れる音がバラバラと響いても、よっぽど友達との鬼ごっこで走り回って疲れたのかソウタは目を覚まさない。
わたしは巻きが緩くなった画用紙を一枚一枚広げて眺めた。
そのどれもが真っ黒なクレヨンで塗りつぶされている。
ソウタの思い出は全部真っ黒。

勝手にギュッと眉間にシワが寄って、鼻の奥がツンと痛んだ。
上を向いても塩っからい涙は口の中に流れ込んでくる。
「どうして!!どうしてソウタは黒い絵しか描かないの!描けないの!?」
それでもソウタを起こさないように小さな声で呟くわたしはちゃんとお母さんだった。
わたしが悪いのだろうか。
わたしがもしかしたらソウタに我慢をさせているのだろうか。
わたしも昔感じた寂しい思いを、ソウタに味わせているのだろうか。

「これから長い出張に行くんだよ」
あの人はソウタの頭を撫でて、ソウタと最後のお散歩に出かけた。
ソウタはこれが最後なんて思ってもいないから、いつも通りニコニコと「ママ!コンビニ行ってきます!」と玄関のドアを開けた。
「パパ!いつ帰ってくるの?」ソウタの無邪気な質問にあの人はどうやって答えたんだろう。
最後くらいはちゃんと父親らしい顔をして、ソウタとお別れできただろうか。
わたしにとっては思い出したくもない思い出で、ソウタにとっては楽しかった1ページの思い出。
手首がゆっくりと円を描く。
頭の中でぐるぐるとそのアルバムをくろのクレヨンで塗りつぶす。
その癖は、わたしのものだった。

左手で右手の手首を思いっきり掴んでも、グルグルとした手は止まらない。もうすぐ冬だというのに額から涙と一緒に汗がツーと伝ってきた。
この手を止めたい。
衝動で、床に散らばった黒い絵を思いっきり引っ掻くと爪の間にくろのクレヨンがはさまってたちまち真っ黒に汚れてしまう。

真っ黒な爪の下に鮮やかなピンクとオレンジのグルグル。
幻覚を見ているようで、慌てて引っ掻いた絵に
視線を落とすと、くろのクレヨンの下からみどりとむらさきのハートマークがのぞいていた。
「これって…もしかして…。」
慌ててガリガリと絵を引っ掻く。爪が擦れて痛むのも、爪の間が真っ黒に汚れるのも全く気にならず、ひたすらガリガリと引っ掻き続けた。
次々と現れる色んな色の模様たち。
夢にも思わなかった光景に夢中になって引っ掻き続ける。
爪がボロボロになるのはもう気にならなかった。
ふいに、絵の下の方に不器用な覚えたてのカタカナを見つけた。「マ」「マ」「だ」「い」
涙がポツポツと絵の上にまだら模様を作る。
「す」「き」

カサリと背後で音がする。
「ママおしっこ」
ソウタが目をこすりながら起きてきた。
「ソウタ…。ごめん。ごめんね。今までごめんね。」
「ママ、なんで泣いてるの?」
何も言わずにただ黙ってソウタを抱きしめるとわたしの涙がソウタのパジャマに染み込んだ。
「ソウタ。絵…どうして黒く塗っていたのか、ママに教えてくれる?」
ソウタの目は見られなかった。
「絵をね、誰にも見られたくなかったの。見られたら、誰かにとられちゃうから。
ママは大事なものは隠しておきなさいっていつも言ったでしょ。
だから、絵に描いたらママが誰かに取られちゃうかもしれないから。」

「ママはどこにもいかないよ。ずっと、ソウタのママだよ。ずっと、だからね。」
しばらく泣きながらソウタをぎゅっと抱きしめ続けていると、唐突にソウタが「ねぇ、ぼくおしっこ」と笑うから、2人して手を繋いでトイレに急ぐ。
「ぼくもママをずっと守るよ。だって、ぼく、むらさきレンジャーだし。」
布団に戻る前にソウタはわたしの手をギュッと握って力強く笑った。

あれから毎日わたしはソウタが寝静まった夜遅くにこっそりとソウタの黒い絵を削った。
黒い絵の下からは楽しそうな動物たちやお花の絵が出てくる。
「ソウタくんなりの芸術があるんでしょう」
いつか先生がわたしに言った言葉をふと思い出す。
くろいクレヨンは、消したい思い出を消し去るためだけにあるんじゃなかった。
くろいクレヨンを削って見つけた「ママだいすき」と書かれたあの日の絵を、大事に伸ばして大きなアルバムファイルに挟んだ。
いつか大きくなってソウタと一緒に見返した時、ソウタはこのことを覚えているだろうか。

ソウタは、大切なものを守るためにこのくろのクレヨンを使っていたんだ。
わたしの中にいる、幼いわたしの手のぐるぐるをそっと止める。
あなたにはね、守らなきゃいけない大事な小ちゃな宝物があるのよ。

ロッカーの上の掲示板に貼られた「今週のお絵描きの時間」の帯の下には子供たちの思い思いの色とりどりの絵が貼ってある。
不恰好な字で書かれた「早川奏太」の名札の上には、一際目立つ真っ黒な絵が飾ってあった。
カラフルな絵たちの中でポツンと目立つハズレモノ。
その真っ黒な絵が凛々しく眩しくて、思わず頬が緩んだ。
「ママ!」ソウタをお迎えに行くと、ソウタは一目散に駆け寄ってきた。
「今日の夜ご飯何がいい?」
「うーんとね。カレー!」

クレヨンケースには、真新しいくろのクレヨンが他の色たちと楽しく寝ている。
くろのクレヨン一本だけが綺麗で長くてぴんと背筋を張っていた。
やーいハズレモノ。
大切なものを守る正義のヒーローは他の子とハズレて凛と笑っていた。

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