spiritual pain ― 苦悩 ― その2
苦痛へのケア
緩和ケアで受けることができる
「苦痛」へのケアなのだけど。
これって、がんに限ったことではなくて。
どんな病気の患者さんが対象になることで。
いつもの病院では
通院中の患者さんすべてが対象になっていて。
5年前からわたしは緩和ケアの看護師さんに入ってもらっています。
なんでがんだけが特別なんだろう
という思いもある、正直なところ。
わたしがずっと続けたいと思っていた
神経内科の患者さん、ご家族へのケアも
緩和ケアの要素がかなり含まれていて。
認定看護師の制度ができた時、まだ発症前だったから
勉強したいと思ったけれど。
認定看護師の養成課程に進む条件として
当時はがんの緩和ケア領域での経験を求められていて。
神経難病や筋疾患だって
苦痛や苦悩の大きな病気なのにな…
遺伝が関わる病気もあるから
ご家族や当事者の苦痛や苦悩の深さや大きさを
外からしかわからないけれど、ほんの少し感じていたりしてきたから
なぜ、がんに限るんだろう…と。
そして、専門看護師として
慢性疾患の専門看護師の存在を知って。
「慢性疾患」として
神経内科の患者さんとご家族の看護について深めていけたら…と思って。
でも、大学院で学ぶことになるので
まずは大卒よね、と準備を始めていて
事故に遭って大きく進路変更することになったのだけど。
生きてるってなんだろ?生きてるってなあに?
上の図にある「人生に関すること」の部分について。
わたしはキリスト教徒なので
「キリスト教的な価値観に基づいた人生に関すること」を牧師からケアしてもらってきました。
「とげ」の話で、パウロのことを。
そして「神様への叫び」で、ヨブのことについて
牧師と話をしたのだけれど。
聖書のヨブ記は
人生における不条理について、ヨブは神様に叫ぶ。
神様の前に正しいとされているヨブが
次々と災難に遭っていく。
その中でヨブは神様に向かって不条理について叫ぶ。
それは「義人の叫び(正しい人の叫び)」で。
苦難の中にあるヨブを神様は決して見放さなず
ヨブ自身が答えを自分の物にするまで寄り添い続ける。
という物語なのだけど。
このヨブのお話は
わたしの治療での様々な過程や経過で起こる事柄みたいだ、と
ありがたいことに言っていただくことが多い。
しーちゃんはヨブだね、と。
ヨブのような信仰は
残念ながら持ち合わせてはいないけれど。
いろんな不条理さというか。
そういう経験を積み重ねることになって
心身共に衰弱することになった。
そこから回復していく過程や経過の中で
苦闘しながら答えを自分の物にしていく
という作業を繰り返していて。
その過程や経過が、「ヨブだね」という言葉になるのだと思われるけれど。
ヨブのように、神様に向かって叫ぶ。
叫ぶことで、神様は耳を傾けてくれる。
耳を傾けてくれたからといって
たちどころに解決するとか、そういうことは起こらない。
だからといって、無視しているわけでもなくて。
その叫びへの答えは自分の中にあるのだから
それを自分の物にできるように、寄り添っていてくれるんだよね…と。
リハ科の先生との関係性と、ちょっと似ていたりします。
祈り会で
天には開かれた窓がある。
そこに向けて「叫ぶ」ことで、神様は耳を傾けてくれる。
神様にそうやって「叫ぶ」ことで
自分を傷つけ、他者を傷つけることを避けることにつながる、というメッセージだったのだけど。
これって、わたしがリハ科で
当時の主治医の先生から
「辛い、苦しい、助けてって言えない代わりに
辛さや苦しさを『痛みを強めること』や『消化器症状』として表に出している。
だから、症状として表に出すのではなくて
言葉にして出していこうね」と言われたことと
なんだか似ているな…と。
リハ科の先生達の話と、牧師のメッセージは
全く違う視点からのものなのだけど。
聞いているわたしにとっては
霊的なことと、身体的、精神的なことと両方で
「言わない」「言えない」ことで
自他共に傷つけることになっていたんだな…と
振り返るきっかけになったな、と受け止めて。
翌日、告知を受けることになったのだけど。
辛さや苦しさを整形外来に行って話してきたり。
助けて!って精神科受診したり。
ポリープ取ったらがんでした、って
周りに伝えることで
はっきりとした辛さや苦しさ、助けを求めるという行動とは少し違うけれど。
抱えているものを少しずつ受け取ってもらうことをしたり。
CRPSの治療過程でわかってきたこと、というか
自分の物にしてきたことを
別の疾患を経験した時に実践できているんだな…と。
そして
パウロの「とげ」と同じで
「身体機能や身体能力の弱さ」だけでなく
「免疫的にも、遺伝的にも弱さ」があるんだよ。
これらのことがあるから、絶対に無理するんじゃないよ。
しっかり食べて、しっかり眠りなさい。
ということなのだな…と受け止めてはいるけれど。
まだ「自分の物」になっていないから。
リハ科受診後の揺れだったり、闘いと同じように。
揺れや闘いを経ることで、自分の物になっていくと思う。
今は「受け止めて」はいるけど「納得はしていない」から。
…という「想い」というか。
「キリスト教的な価値観に基づいた人生に関すること」を
牧師からケアしてもらってきました。
話すことは離す/放すこと
たまたま、わたしには
難治性の慢性疼痛と初期のがんがあって。
難治性の慢性疼痛も緩和ケアの対象にしている病院を
受診していて。
教会で牧師から
スピリチュアルペインについてケアを受けることもできている。
だけど「言えなかった」ことで
もっと早くに受けることができていたかも知れなかったケアにつながらず。
心身共に衰弱することになった。
そこからの回復過程で
「言える」ようになれたことで
今回、こうして自分から苦悩へのケアにつながるような
行動ができていて。
初動としては、経験が活かされたのかな?と。
そして、思う。
難治性の慢性疼痛と呼ばれるわれらにとっても
緩和ケアって必要なんだ、と。
からだのこと
きもちのこと
生活のこと
治療のこと
人生のこと
われらは
「1人で頑張らなくて良いんだよ」と言われても
なかなか頼ることができない、という特性を持っていて。
助けを求めてサインを出すのだけど、かーなり控えめなので
助けを求めるサインと気づいてもらえないことも多い。
こういうことで困ってる。
でもそれって、自分でなんとかするしかないんだよね。
って自己完結しがちだし
そういう答えをもらうことも多くて。
「ほんとうにこまっていること」が伝わりにくい。
そして、「言ってもな…」「わかってもらえないからな…」って
「言わなく」「言えなく」なってしまう。
でも、「こまりごと」はどんどん大きく深くなって…
安心して話せる場所、相手を見つけることも難しかったり。
あっても言えなかったり、で。
じゃあどうすれば?というところを
今のわたしには解決できるだけの能力がないけれど。
【わたしの場合】
今回の新たな病気に関していえば。
CRPS治療の過程で経験してきたことを活かして
初期対応ができているのかな…と。
逆引きみたいな形になるけれど
CRPS治療の過程で経験してきたことは
他の病気に関してもいえることなのかな…と。
難治性の慢性疼痛を通して「編みなおし」をしたことは
他の病気に関しても有効なのかな…と。
…またしても、掘り掘りしたくなるテーマです。
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