夜の渋谷で幸福について考えてみた
人間は生きている上で必ず幸福というテーマについて考える。おそらくそれが他の生き物との違いであり、人間を人間たらしめるものだろう。_________
先日、東京は渋谷で友人に会った。今彼は起業家であり、数十年後には堤清二や三木谷浩史に並ぶ存在になるだろうと僕は信じている。僕らは高校からの友人だ。ビジネスコンテストに参加したり、ディベート部で毎週ディベートしたりしていた。といっても、僕らが出場したビジコンはビリから2番目で散々だったし、ディベート部も最後の方は普通に大喜利を発表する場になってたけど。あと西成や飛田に冷やかしに遊びに行ったり、グラフィティをして警察に追いかけ回されたりした悪友でもあった(僕は横で写真撮ってただけなんだけどね)。
そんな彼とこういうこともしてたねっていう昔話で盛り上がりつつ、色々な話をした。その中で、幸福とはなんだろうという話をした。彼の意見を要約するとこうだ。
「オレが思うに、幸福というのは色々な環境に身を置いて自分を客観視できる状態で、自分に軸を持つことだと思う。オレの身の回りにはエリートの家系に生まれてきたヤツもたくさんいるが、ソイツらはソイツらで固まって狭い世界にいるから、自分たちが如何に恵まれた環境にいるか分かっていない。だからソイツらはエリート故の重圧や忙しさのせいもあって幸福感を感じられていない。」
確かにな、と思った。日本の教育システムでは基本的に、高等教育以上では集団の凝集性が上がるから、似たり寄ったりな人間が集まりやすい。そうなると、違う世界の住人について想像が難しくなってしまう。そこで僕はカズオイシグロの「縦の旅行」という話を思い出した。
僕たちの高校は少し特殊で、進学校から落ちこぼれたヤツから、なんとなくこの高校にきたヤツ、不登校だったヤツ(僕なんですけども)やほぼプロのダンサーだったヤツ、クリスチャンで哲学者をやってるやつ、そしてPもいた。(意味は各自調べてね)そんな感じで、とにかく色んな奴がいた。
思春期に環境も性格もバラバラなヤツらが同じ狭い箱に放り込まれたら、そこで起きるのは当然カオスである。というか3年間毎日カオスだった。どこかしらで揉めるし、気づいたら消えてるヤツもいた。でも、楽しかった思い出もいっぱいあったし、何より大事な友達に沢山出会えた。そんな友人達と今も仲良く出来ていることが何よりも財産で、変え難いものだ。一つ言えることは、あの高校に行ってなかったら、一生交わらない世界線にいたんだろうなって友達が一杯いること。多感な時期に、ある意味で真の多様性に触れられたというのは、恵まれたことだと、つくづく思う。
話を本題に戻すが、彼の言ったことに100%同意する。その上で、一つ付け加えたい。それは、幸福とは、"自分が幸福だと「思える」ことである"と。そして幸福だと「思える」ことの条件に、彼が言った客観視できることが必須なのではないかと僕は思う。
この「思える」ということについて説明したい。この際、実際にあなたが幸福かどうかは然程重要ではない。何故なら、幸福というのは相対的な尺度で決まるものだからだ。当然絶対的なものもあるが、ほとんどのことは相対的なものだ。_______
ブータンという国がある。南アジアに位置する小さな国で、簡単にいえば、インドと中国に挟まれたチベット仏教の国だ。この国は2010年代にあることがきっかけで注目されるようになった。それは国連の幸福度調査において、並み居る大国を差し置いて、世界8位に入ったのだ。少し長いが引用しよう。
しかし、この話には続きがある。ブータンは2019年度版で156か国中95位にとどまって以来、このランキングには登場していないのだ。その原因にSNSによる海外、とくに先進国からの情報流入が挙げられるという。つまり、「雨風をしのげる家があり、食べるものがあり、家族がいるから幸せだ」と思っていても、いざ隣の青い芝生を見てしまっては、もう元に戻るのは難しいのだろう。
しかし、我々も同じだ。SNSを見ると、例えば、インスタでキラキラしている日常を毎日のように載せている人がいて、羨ましいと思うかもしれない。しかし、それは虚像かもしれない。そしてTwitterでは幸福がどうとか、コンサルがどうだとか、エリサラと結婚してどうだとか、そういったことをみんな喧々諤々と言い合っている。しかしそれだってn=1であって、そもそも嘘かもしれない。結局これも虚像でしかない。
そんな"虚像"に振り回されるのも癪な話だなと思う。しかしSNSはそんな虚像や、知らなくて良かったことも否応なく突きつける。情報化が進んだ社会ではこのジレンマから逃れることは困難だが、幸福だと「思える」ようになるためには邪魔になってしまう。あくまで大事なのは自分が今の人生に対して幸せだと思えること、納得することが大事だと僕は思う。
難しいことかもしれないが、幸せを決めるのは他人ではなく自分。そして不幸かどうかを決めるのも自分。この世はフェアじゃない。だからこそ、そしてその格差が広がっていくからこそ、このマインドでいるべきなのではないかと、僕は思う。
そしてもう一つ、条件として「なりたい自分」があることも挙げたい。人間は目標に向かって努力し、それが達成された時に脳内から報酬として快感を得る生き物だ。そして時には、その目標に向けて、文字通り命をかける人も沢山いる。僕はそういう人を見ると、幸せそうだなと思う。ただし、命をかけろといっているのではなく、なりたい自分を見つけることが大事なのだ。例えばあなたが「ニートになって何もせず一生を過ごしたい」と思っていて、そのためにお金を貯めていたり、引き篭もっているなら、それはそれで幸せなのだろうと思う(ここではニートが幸せかどうかの是非は議論しない)。なりたい自分に向かって努力するということは幸せであり、そして夢を追いかける人はカッコいいと、僕は思う。
_______世の中の問題のほとんどは、自分/他人、つまりミクロ/マクロの二つに分かれる。そしてこの二つの対立が命題になる。これまでの話は自分(ミクロ)の話であり、これからの話は他人(マクロ)の話である。____
そして最後の大事な条件は「環境に感謝すること」ではないかと思う。「類は友を呼ぶ」とはよくいったもので、良い人の周りには良い人が集まるし、逆も然りだ。
今これを読んでいる人は、自分の周りにいる人間を思い浮かべて欲しい。良い人ばっかりだなって思っていたら、おそらくあなたは幸福だろう。反対に周りがどうしようもねえなって人ばかりなら、環境を変えて、努力した方がいい。なぜならおそらくあなたも、どうしようもねえ人であるからだ。環境によって人は否応なく変えられる。だからこそあなたにとって良い環境を見つけるのもまた、幸福であるための条件の一つだろう。
これらを踏まえて、人は幸福であるのだと僕は思う。つまり、
・自分を客観視できること、そのために広い世界に出る努力をすること
・環境に感謝すること、そのために良き友人を作る努力をすること
・なりたい自分があること、そのために自分を探す努力をすること
これらが揃って、自分の人生に納得できた時に初めて、人は幸福なのだろうと思う。当然この議論や結論に異議を唱える人はたくさんいるだろう。しかし、それでいいと思う。何故なら、幸せかどうかを決めるのは自分なのだから。
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