見出し画像

貧しさ

私がまだ小さかった頃、私の家はとても貧かったようです。脱サラした父は事業に失敗していました。職につけず会津の山奥で炭を焼いたりして、家を空けることが多かったようです。長男でしたので、大学生の叔父、高校生になった叔母、一番ちいさな叔父はまだ小学生でした。父を含めて家族は11人。祖父の収入はほとんど学費に消えて、
生活費は母と祖母の内緒で支えられていました。

世間もまだまだ豊な時代でもありませんでしたがそれにも増して私の家は貧かったようです。中学になった時たまたま親戚のカヨコちゃんと同じクラスになりました。カヨコちゃんにその土地でも一番貧乏だったと聞いて、そうだったのだと知りました。

ところが不思議なことに貧しさを感じたことがないのです。記憶を辿っても貧しいと思ったことがありません。それどころか、豊かだったとさえ思えてくるのです。

小さかった私は隣に住む男の子以外遊ぶ子がいませんでした。隣の家は地域では有名な裕福な農家だったのですが、私は自分の家と比べることを知りませんでした。隣の家の状況はその家のもの、そういうものだとそのまま受け入れていました。
今から思えば確かに生活は雲泥の差でしたが、自分の置かれた環境を何一つ引け目には思いませんでした。

それでも、貧かったはずの自分の家には良いものがたくさんありました。

叔母が学校から持って帰って聞かせてくれたマンドリンの音色。
プレーヤーでレコードも聞かせてもらいました。チャイコフスキーの音楽というのを知りました。
叔父たちが読み終えて埃を被った文庫本が山積みされていました。わくわくしながら本の埃を祓いながらめくったりしました。
夕食のために、近くの畦道に生えているセリや蓬を摘みに行くのはとてもとても楽しいことでした。摘んできたセリを母は天ぷらにしました。蓬は草餅になりました。たくさんの家族で分け合って食べる夕食は本当に美味しかった。

大人になって時々貧しさについて考えることがあります。物がなかった子どもの頃に貧しさを感じないのは何故なのだろうと。むしろ豊かだったとさえ思えるのは何故だったのだろうと。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?