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夏休み自由研究(ティム・インゴルドの読書感想文)

ティム・インゴルドの本が今日のテーマ。

本屋で手に取って序章を読んですぐにこの著者のテーマと
私の最近のテーマが同じことがわかって即買いした。
人類学者であるこの著者の言葉は、自然科学や人類学の裏付けとともに
ボードレールが詩作「Correspondence」で表現した
人間の共感覚の秘密についての探究の軌跡であり、
調べるとそういったテーマの本を多く出版しているようでした。

なぜCorrespondという言葉に興味があるのか、ずっと考えていた。
まだ人間は、自然のことも自身(認知)のことも全然しらなくて、ボードレールの詩を持て囃す人でさえ、まだその本当の意味を知らずにいると感じていたから、ティム・インゴルドの本にあるような試みは、私の孤独な探求の足元を照らす
小さなサーチライトのようにこれからの見通しをよくしてくれたように感じた。

この著者のような研究者が、ボードレールと同じようにアートやサイエンスを詩的に表現する試みを通じて、親鸞万象を言葉に変えることの可能性を私も知りたいと思ったのだった。

時々ぱたと活字を伏せて、ああ私は話し相手がやっぱり欲しいんだなあと思う。
遠くからこんなふうに聞こえてくる声が届いて気づくことができるとき、まだ大丈夫だって思えるけど、普段はまるで違う言葉を話している。
こうして呼び戻されるように戻って来れた時、私は自由を思い出す。
雨の日に、部屋にこもって窓に打ちつけるリズミカルな雨音と、窓枠の古い木材に水が染み込む匂いの中、大きな知恵からの声に耳を傾けたあの大好きだった完璧なほど退屈な時間にあと何回戻ってくることができるだろうか。

例えばアートを見るということは、
色や現象を認知するということだけではなくて、
光について
振動について
人間の認知機能について
時間について
命について
目にみえないものについて
すべてを知ってその見るということが
本当の意味で浮き上がってくるのだと思う。

インゴルドのいう
「音の中で人は空に上がった凧のようなものである」という表現の通り
目や耳は今ここにある現象を人間が知覚する方法、道具にすぎず、
聞けたもの見れたものを人間のフィルターを通すと、
それはすでに別のものになって記録される。
そう考えると私たちが生きているこの環境はまるでおままごとではないか
と不思議な違和感が芽生えてくる。
世界をよくわからないままなんとか作った仮の人間社会に生きているのかも。

言葉に変える試みを私もやってみたい。
最近、好きな人に自分をうまく表現できなくてすごく悔しい思いをしたから、やっぱりそんな思いはしたくないっていうのが大きいかも。
表現できていないなら私は死んでいるのと変わらないのでは?

なんつて。


特にあげるものがなかったので顔です

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