356【ごんぎつねと南吉が教えてくれたこと】
ある秋の日、私は北海道立文学館を訪れました。そこで開かれていたのは、新美南吉生誕100年を記念する特別展。「ごんぎつね」の世界に触れる展示は、10月21日までということもあり、足を運んでみることにしました。
南吉の代表作といえば、誰もが一度は耳にする「ごんぎつね」。物語の結末がどうしても心に引っかかり、子供の頃はその悲しさをどこか理解しきれずにいました。ごんはなぜ死ななければならなかったのか。兵十に思いが通じた瞬間に訪れるあの結末は、なんとも言えない虚無感を残します。それでも、この展示を見終えた後、私は少しその理由がわかった気がしたのです。
展示の中で、南吉が教え子に語った言葉が印象的でした。
「尽くしても尽くしても通じないこともある」
その言葉に、彼の人生そのものが込められているように感じました。幼い頃から孤独に苛まれ、病弱な体で思うように生きられず、愛する人とも結ばれることなく、わずか29歳でこの世を去った南吉。しかし、彼はただ悲しみに沈むのではなく、その悲しみを愛に変えようとしたのです。
「悲哀は、愛に変わる。悲哀の中に、愛がある。」
南吉が残したこの言葉を目にしたとき、私は胸が熱くなりました。誰しもが抱える悲しみ。それを否定するのではなく、受け入れて愛に変えていく。その姿勢に、南吉の人間としての強さと美しさを感じたのです。そして、南吉は、「だから、俺は、愛に変える。悲哀を含むストーリーを書こう」と決意します。
「ごんぎつね」の中心人物は誰だろう?
これは私が昔から考えてきた問いでした。兵十なのか、ごん狐なのかーー。結論を出せないまま時間が過ぎていましたが、この展示を見た後、ようやく答えが見えた気がします。
物語の中で最も孤独なのは、やはりごん狐です。人間と違い、誰にもその思いを直接伝えることができないごん。誰にも心を寄せることができず、それでもひたむきに母を亡くした兵十に尽そうとします。しかし、その「尽くし」は最後の最後まで通じません。そして、ようやく兵十にその思いが届いた瞬間、物語は終わります。
兵十の母の死とごんの死ーーそれはまるで、南吉自身の孤独と死が重なっているかのようです。だからこそ、「ごんぎつね」はごんを中心に据えた物語だと、私は思います。
展示を見終わった後、気づけば1時間以上が経っていました。じっくりと作品と向き合い、南吉の世界に引き込まれていたのです。その後、私は改めて彼の別の作品『でんでんむしのかなしみ』を読み返しました。この物語もまた、南吉の人生哲学が垣間見える作品です。
「悲しいのは自分だけじゃない。悲しみを乗り越えていくしかない。」
そう語るでんでんむしの言葉に、私は勇気をもらいました。悲しみは誰にでもあるもの。でも、それをどう受け止め、どう乗り越えるかで、人生は変わっていくのだと。
また、私は椋鳩十の全集を読むのも好きです。彼の作品もまた、物語の裏に作者の感情や人生が透けて見えるような深いものばかりです。改めて、物語を書くということは、自然と書き手の感情や経験がにじみ出るものだと実感しています。
文学は単なる娯楽ではなく、書き手の人生そのものが刻まれたもの。そしてそれを読む私たちは、彼らの感情に共鳴し、時には救われるのです。「ごんぎつね」を再び手に取りながら、私はこう思いました。
読書って本当にいいものですね。