地図のない山
地図は要らないのかもしれない
ずっと前からの違和感について説明できるようになったので書いておきたい。
地図のない道とゆう本がある。
内容については、失礼な話しであるが全く覚えていない。
ただ、題名についての違和感だけは覚えている。地図のない道って、あるだろうか?そもそも地図のないではなくて、地図にない道なのではないだろうか?
そんな事を思ったのだけど、それさえ忘れていた。
なのに唐突にそれを思い出し、さらにはその題名について腑に落ちたのは、山に行くのに地図を持たないし、事前に地図も見ないという友人と話したからだ。
山を普段から舐めている私でさえも地図は見る。道迷いしない為でもあるが、あらかじめルートを確認してしてなんやかんやと計画めいたことをするためだ。
山に行くのに地図を事前に見ないし、歩きながらも見ないのは何故かきいた。
山に入ったら、地図など見ないで自由に歩きたいそうである。地図が必要なときは他の人の地図を見るという。
なんとも自分勝手な話だなと思った。
しかし、他の人をあてにするのは違うと思うが、地図を持たずに行く登山というのも、それはそれでアリなのかもしれないと思った。
今のように正確な地図がなく、案内表示も整備されていなかった時代の登山というのは、もっとこうデタラメで野性的だったんだと思う。
進むべき道は地図にはないし、道標のようなもも一切ない。
あるのは大まかな山の位置関係や形を記したいにしえの書か、端っこの方は極楽浄土に連なっている毛筆の概念図などだ。
おのれの感覚のみを頼りとして道なき道を歩く。そういう登山があってもいいのかもしれない。というかそもそも自分はそっち志向なのでバリエーションルートが好きなんだろうなとは思う。
いつしか地図を持たない登山者を軽蔑し、最新と言われる安全が保証されたギアを揃えることに腐心していた。
もう一度、原点に戻るべきなのは自分なのかもしれない。
地図を捨てて山にでよう。