もう二度とグルなんか求めないと誓った日
『もしも私が間違った道に進みそうになったら、必ず神さまは私を転ばせてくれる。
そのくらい私は神さまから愛されている』
ある日突然そう思った。
いつだったか、もう覚えていないくらい昔々のこと。
だから私は安心して間違えればいい。
そう思ったからなのか、なんなのか。
何度も何度も転ばされてきた 笑
【勇気が出るラジオ】の今月のテーマは「出会い」
話しているうちに、ふと思い出した数年前のある出会い。
ワタシがまた神さまに転ばされた話を、今日はしようと思います。
神さまからのアシストって、こんな形でやってくることもあるんだよってお話です ^^
私は自分のことを、とても怖がりで疑い深く、だからとても慎重で、計画的で、事前に調べまくるタイプだと思っている。
でもその反面、瞬間にものごとを決めていることがある。
「決める」というより、それはもうその瞬間、決定事項であり、現実であり事実。人生の重大事のようなことこそ、そうやって選んできたような気もする。
数年前のある日。
Facebookを開くと、1つの投稿に目がとまった。
その人は、『人生』をすべて語れるという。
と言われても何がなんだかわからない。
直接会った方が早い。会いたい。会って話がしたい。
私の全身がそう反応していた。
幸いなことに、すぐに会えるチャンスがあった。
だから少し遠いけれど、行ってみることにした。
とにかく直接話してみないことには、きっと何もわからないだろう。
本当のところどういうことなのか、自分で体験するしかないと思ったから。
で。
「もう二度とグルなんか求めない!」
帰りの電車の中、軽い頭痛を感じながら、心にそう固く誓った。
相手を否定したり糾弾するつもりはさらさらない。
その人のもとで救われた人、しあわせになった人はたくさんいる。
それもまったく否定する気はなく、素晴らしいことだと思う。
それとはまったく関係なく、今この場所で私がしたいのは、
私は何を感じ、何を考え、何を思ったのか。
私にどんなことが起きたのか。
私は私のことを話したい。
それ以上でもそれ以下でもなく、私の物語を語るだけ。
念のためにもう一度言っておく。
私は、私が正しい・相手が間違っている、という話をしたいんじゃない。
私はこんな体験をして、こんなことを感じて、こう思ったんだ。
という話をしているだけ。
私は私に起きた出来事を話している。
誰かの話をしているのではない。
そのことだけは、どうか間違えないで欲しいと願っている。
これから語るのは、すべて私から見た物語。
この世界には、1つの出来事に関して、見る人の数だけ物語はある。
その中の1つに過ぎない。
前置きが長くなってしまった。
それくらい私にとって、これはストレスのかかることなのだ。
誰かとのかかわりで起こった出来事で、たとえ心がひりつくことがあったとしても、自分の意見や感想や感情を表に出すことをセーブしてきた。全部黙って胸のうちにおさめてきた。
あらゆることを呑み込み、「ものわかりのいい大人」でやり過ごしてきた。
もうそれはやめる。
やめてもいいのだと思う。
さて。
何が起きたのか。私にはその出来事はどう映ったのか。
あれほど言葉がかみ合わない想いをしたことはなかった。
あのとき以上に、会話が成立しないむなしさ、くやしさを味わったことはない。
私は話がしたかった。
対話がしたかった。
何をしたくてここへ来たのだと何度も聞かれ、そのたびに「私は話がしたい。対話がしたい」と答えた。
対話とは、相手と同じ場所に立ち、同じ目線の高さで向き合うこと。
でも、「対話」は成立しなかった。
たとえば、その人は言った。
自分は奥さんに会社を辞めたり、会社をたたんだり、いま何をしているのかも一切話していない。
話せば心配させる。大切な人に重荷を背負わせることになる。
なのにみなさんは、夫婦なら話すべきだ、話さなければいけないなんて考えてるんです。まったくおかしな話ですよね。
「あなたはどう思いますか?」と聞かれたので答えた。
「私は教えて欲しいと思う。知っていたいと思う。
つまり人それぞれ。価値観の違いですよね?」
「価値観の違いなんて話じゃないんですよ!!
人生を知ったら、私の言っていることがあたりまえだとわかるんです!」
そうか?
そうなのか???
他人の重荷を本当に背負えるのか。
それは私にもわからない。
だけど、出来ることなら半分背負いたいと思う、その気持ちが私は好きだ。
それが私をあたたかくしてくれるから。
ひとりじゃない。人生って捨てたもんじゃないなって思えるから。
だからそれは、単なる価値観の違いで人それぞれ。お互いが納得しているならそれでいいんじゃないの?と思う。
私は、私はどう思うかを聞かれたから答えたに過ぎない。
「あなたは何もわかっていない。
私を信じていない。
私の言うことをわかろうとしていない。
私の話を聞いていない。
自分の知っていることに置き換えてしまう。
私の言葉を言葉のままに受け取ってください!」
「私は必死で聞いているし、わかりたいと思っている。
わかろうと思っていない、と言われても、それすらもわからない私がいます。
そのわからない私、それでも知りたいと思う私をぜんぶさらけだして、逃げずにいまここにいます。
なのにどうして、それさえ受け取ってもらえないのでしょう?
わかったふりをせず「わからない」と言うことすら、ここでは許されないのですか?」
私からすると、何を話しても頭から否定された。
おそらく相手からすると、何を話しても聞いていない、となるのだろう。
まったく会話が成立しなかった。
今この瞬間、ここにいる私をまったく見ていない。
肉体と感情を持つ生身の私を見ていない。
そもそも私という存在そのものに、その人はまったく興味が無いのだろう。
「私は真剣に向き合ってますよ!」と言うその人が向き合っているのは、目の前の私ではなかった。
その人にとっての真実である『人生』だけ。
その物語の中に住み、いまここにはいない。
だから同じ場所に居ても、二人が出会うことはなかった。
噛み合わない会話をずいぶん長いこと続けた果てに、昔ある人から言われた言葉がふっと頭をよぎった。
「私という権威に従いなさい」
ああ、そういうことか。
あのときと同じことが起きている?!
なんのあてもなく会社員を卒業し、でも何も始められずにいたころ。
心から尊敬し、心酔していたヒーラーさんがいた。
その人が「○○養成講座」的なものを初めて開催するという。
2泊3日だったか、3泊4日だったかの合宿を、間隔をあけて3回行うという長期の講座。もちろん認定資格ももらえる。
私が会社員を卒業したタイミングで?!
あの人が初めての認定資格を!!
これはもう運命としか思えず、申し込んだ。
そして最後の合宿の前日の深夜、というか当日の未明だったか、
その人から届いたメールにこうあった。
「私という権威に従いなさい」
で、
私は壊れた。
講座で教えられるメソッドを私はまったくマスター出来ず、最後の最後までわからないままだった。
わからないから、正直にわからないと言った。
講座が終わればそれを他人に教える立場になるのだから、わからないままでは困る。
どうしてもわかるようになりたかった。出来るようになりたかった。
だから質問もたくさんした。
すると突然言われたのだ。
(正確にはメールが届いた。なので聞き間違いじゃない 笑)
『あなたは私から教わっているのに、私に対する敬意が足りない。
私という権威に従いなさい』
何を言っているのか、さっぱりわからなかった。
大好きで心の底から尊敬し、だからこそ真剣に学んでいた。必死に理解しようとしていた。
でもどうやら、「わからない」と言うことは、その人にとっては「敬意が足りない」ということになるらしい...
「わからない」と言われると、自分を否定しているとか、自分を信じていないと思えるのだろうか?
わかりたいと必死で思っているから、わかったふりをせずに正直に「わからない」と言っているだけなのに。
どうしてそれが否定されてしまうのだろう。
どうしてそれが、相手を否定することにつながってしまうのだろう。
凡人の私には、いまだにわからないことだ。
「あなたは才能が無いからあきらめた方がいい」
そう言われた方が傷は浅かったと思う。
「権威」なんて言葉から、一番遠いところにいるのだと思っていた。
その人自身も、その人のもとで学ぶ私たちも。
そしてもちろん、そのスキルを使って実現していきたい世界も。
だから何を言っているのか、何が起きているのかまったく理解できず、私の頭はショートした。
あまりのショックに私は動けなくなり、最後の合宿は当日キャンセル。
だけど「大盛況のうちに全員で講座は終了した」とアナウンスされ、私の存在は無かったことになった。
「私という権威に従いなさい」
この言葉が頭に浮かび、私は思い知った。
自分がまた、何をやらかそうとしていたのか。
私はまた、「凄い人」を求めていたのだ。
一瞬ですべてを変えてくれる魔法使いのような凄い人を。
「すごい人」をつくれば、その対極に「すごくない私」が生まれる。
自分自身が、ずっとこう言い続けてきたじゃないか。
なのに自分が、いまだにその罠の中にいた。
何時間も話し続けるうちに、次第に「言わされてる感」のような、違和感を感じるようになった。
気がつけば反省し、自分のダメなところを語っている。
つまり私はこんなにもわかっていなくて、こんなにもダメなんですねと。
これが私の悪いところで、ダメなところで、今までの過ちだったんでしょうと。
「言わされている」というのは、相手に、ではない。
関係性に言わされてしまうのだ。
「わかっている人」と「わかっていない人」
あの時、あの場所で起こっていたのは、この完璧な分離。
だから私は、「人生のすべてをわかっているすごい人から教えを乞うわかっていない人」の役割を演じなければならなかった。
「わかっていない私」は、自分を否定し、自分を責め、反省の弁を述べなければならなかった。
そうなってしまったのは、私が「すごい人」を求めたから。
「すべての答えを知っているすごい人」を、私が求めた。
だからそういう人が現れた。私の人生に。
その人はその役割を、見事に演じ切ってくれた。
なぜ私はこの場所に来たのか。来なければならなかったのか。
カミサマの仕組んだカラクリが見えた。笑
私はもうこれ以上、自分を卑下したくない。
「救われなければならない人」に自分をしたくない。
「すごい人に救いを求めなければならないダメな私」を演じるのはやめる。
もう二度と、グルなんて求めない。
私はもうこれ以上、自分を貶めるようなことはしない。
そう自分に宣言し、帰路についた。
神さまは絶対に私を離さない。
行くべき道から逸れれば、必ず私を転ばせてくれる。
それくらい私は愛されている。
神さまから。
この世界から。
そして、『人生』からも。
私の知っている “それ” は、決してむずかしいものなんかじゃない。
苦しい修行を重ねて “獲得するもの”なんかではない。
それはどこにでもあるもの。
誰の中にもあるもの。
ただそうだと認識していないだけ。
気づいていないだけ。
特別な人だけが手に入れることが出来る、特別なものなんかでは断じてない。
“特別”を喜ぶのは、エゴだけだ。
手に入れようと頑張ることが、逆に真実から一番遠ざける。
わからない私、それを手に入れていない私を創るから。
本当に私はそれを伝えられるのか?
ワタシごときが、それを伝える資格があるのか?
仕事としての発信が増え、期待を寄せてくれる人が増えるにつれ、いつのまにか”それ”を話題にすることに、憶病になっていった。
いや、もしかしたら、億劫になっていったのかもしれない。
特別な何かだと思っている人、それがわかればすべての悩みが解決すると思っている人に、そうじゃないんだよということを説明することが。そういうものじゃないんだよと誤解を解いて回らなければならないことが。
だけどなんのことはない。
私自身がいまだに特別な何かを求め、それがわかればすべての悩みが解決する魔法を探していた。
おーまいがっ!!!
だから転ばされた。
おいおい、どこへ行こうとしてるんだい?
あなたが行くべき道は、そっちじゃないだろう?と。
転ばされるたびに思う。
もう一度、始めてみよう。
なんにもない私で。
憶病がらず、億劫がらず。
世界は美しいということを、
それはつまりあなたは美しいということなんだよと、
私が感じるまま、私が生きるままを伝えたい。
十数年前、セラピストとしてお金をいただいてやっていこうと決めたときと同じように、
なんにもない私だから何度でも始められる。
私は特別なものなど何も持っていない。
だけど、”それ”はこの世界に満ち溢れていることを知っている。
「私」は持っていないが、この世界にはすべてがある。
たとえばその日の帰り道、疲れた脳は甘いものを欲していた。
「ふわふわしたあま~いものが食べたい…」
ぼんやりとそう考えながら改札を出ると...
目の前の期間限定ショップに、それはあった。
神さまのカラクリを理解し、
ふわふわで甘酸っぱいレモンパイを食べ、
幸せな気持ちでその日わたしは眠りに落ちた。
すべてはあるのだ。
人生において必要なものは、すべて用意されている。
流れに逆らい間違った道に行きそうになったら、ちゃんと転ばせてくれる神さままでセットで!笑
すべてある。
私の生きる世界はそういうふうに出来ている。
むずかしいものではない。
とことん追い詰められないと手に入れられないものではない。
特別な人だけが手に入れられるものではない。
そもそもそれはあるのだから。
世界は優しい。
優しくてとても美しい。
だから私は恋に落ちる。
神さまに転ばされるたび目が覚めて、
何度も何度も繰り返し自分自身と恋に落ち、この世界に恋して生きる。
そこにグルは必要ないね!笑
Life is Beautiful.
世界は美しい。
人生もまたしかり。