自己昇華い
ご挨拶は初記事で済ませたつもりでしたが、自己紹介をしていなかったので。消化させます。昇華します。
初めまして。とうじです。名前は適当です、自分に名字を付けるとしたら何が良いかな、と思ったときに数秒で思いついたものです。
ユーザー欄に書いてあるように1113歳の天空の城在住です。常に精神だけで生きています。外に出る時だけは仮の実体に憑依して(服を着るような感覚で)、実体に託して買い物をしたり自転車を漕いだりします。
好きな食べ物は珈琲ゼリー、オムライス、色々です。お子さんが好きな食べ物は大抵好きですが、お寿司はなんだか苦手です。食べ物と認められるような味を認知できません…。「私子供舌なの~」というお方でも、寿司を好きな時点で子供舌とは一線を画していると思うのですよ。あれを解れば大人の味の片鱗をマスター出来たといって過言ではない、と思います。
↑といいましたがおすしが苦手なだけで好きなので、これはおすしのワルツです。思いつきとは闇の権化なのですね。
地動説を信じていますが天動説でもいいのかもしれない。見ようによっては天動説の方が正しくみえるのかもしれない。そういう人もいるね。そんな感じでゆるく曖昧に生きて居ます。コペルニクスの名前はかわいい。
ものごとをはっきり決めるのがちょっと苦手。勉強すればするほど完全な正解がわからなくなる(いい経験だとは思います)、という感覚をひしひし。言いかえれば柔軟になれるということかしら。…と改めて思った大学時代以前にも、これは別の観点からですが、これが誰かの夢の中だったら世の常識なんて一瞬で次の日にひっくり返ってしまうし、ひとりひとりに固有の世界があったら正解は其の人の中では限りなく正しいのであり、別の人からみたらその持論は取るに足らないくらいのものだろうな、と考えたりしていました。もし絶対時間があるにしても、たくさんの絶対時間がある事になると思います。よくお風呂の時にそういう哲学的な思い付きをぷつぷつ浮かばせては、すぐ水みたいにわすれます。しかし定見を持てるようになるためにも、絶えざる研鑽が必要であり、ずっと勉強し続けます。こつこつ。
ユーザー欄にあるように、思ったことを書きます。文章を綴るのが好きです。気付いたら断続的にきまぐれにやっているブログも十年くらい(だいたい)続いていました。懐かしいです。
あとは、自己紹介の典型と云えば、座右の銘ですかね。特にありませんが、小学生の時は、死なないから死ぬ気でやってみろっていうのを割と心に据えて居たような気がします。若いですね。いつ死んでもいいと思って居ました。いい意味で。
人は見た目ではないと思いますし、私自身、人間の外見を見て評価を下したりしない(「かわいいってなんだ?」と思います。動物にそう思うのは分かるのですが、人間の見た目の、優劣の判別の仕方が分かりません。感情を顔から読み取ることはわかるし、笑ってるな、泣いてるな、とは区別できますが、いわばイケメンとか可愛いとかの意味がよくわからなくなっています。)のですが、本当に心の奥底に確かにある信念とか志とかは表情に現れるものだと思います。ということで穏やかでいたいものです。
あと最近、詩経だっけな…、昔の言葉で、
「静とは、心の妄動せざるを謂う、
安とは、処(お)る所にして安きを謂う、
慮とは、事に処して精詳(せいしょう)なるを謂う、
得とは、其の止(とど)まる所を得るを謂う」
っていうのがあって、大人になって答えのない世界でどう自分をしっかと持っていくのかというちいさなヒントが在るような気がして心をちょっと打たれた事があります。
固執がいけないといっても、自分を持たねば意見も何も唱えられません。学ぶことで心が余計な情報に引っ張られない本当の賢さを持ちますし、それゆえ留まる所を知る事ができます。留まるべきところに居れば、そこで身は安らかに居られます。事にあたってもそれについて良く知り、適切と思われることを冷静に導き、そして事象が落ち着くべき場所に持って行きます。
言葉にすると聊か大仰に聞こえますが、ほんとうの静けさを身に着けたいものです。と、いいつつ、ここでは元気にふざけていきます。
いつになっても、心にずっとどこか小学生を残している所があります。心はいつでも小学五年生、とは、私がよく標語にしていたことです。小6で言ってたかな。それくらいの子供心でいたいなあ、と、小六で思って居ました。
そうですね、結局最後のやつが私にとっての標語として適切なんでしょうか。多少勉強して年を重ねた小学五年生、といっても確かに過言ではないような気も致します。自分の事ですが自分でよくわかりません。普通を目標に生きてきたので。今迄ずっと。
まとまらなくなっちゃったな。とりあえず、のんびり好きなことを書いていきます。気が向きましたらよろしくです、暇潰しにでも。