(6)食べたくない、食べられないのお話し①
食事は、人生にとってとても大事なものですよね。勿論身体の機能としても、食事から栄養を取らねばならないです。でもそれ以上に、なんていうのか・・・「心の潤い」とかを食事から得る側面もあると思っています。
心安い人と食卓を囲み美味しい食事に舌鼓を打つ。とても幸福な事で、生きる上で大切だろうと、そう思うのです。
・・・が、私はどうした事か、食事をするというのが、苦痛でなりませんでした(^^;)
自分の異常さに気付いたのは、実家を飛び出してからのことです。同居人との食事に対しての食い違い擦れ違い・・・を繰り返し、自分の現状と気持ちに気付きました。
まず最初に気が付いたのは、仕事帰りに待ち合わせをして「今日何が食べたいか」と話し合っていた時です。「今日はお寿司が食べたい」とか「今日は野菜の気分」とか、そういう他愛のない相方の言葉を聞きながら何時もの通り「私はなんでもいい」と口にします。本当に何も食べたいものが思いつかないんです。勿論好物はあります。でもその好物が食べたい訳でもない。何でもいいんです。というか、何も食べたいものが無い―――という事に気づいたんです。
毎回毎回、何も食べたい物が思いつかない。それどころか、食べたいものを「選べない」。
お店に入ってしまえば、そのメニューから食べる物を選ぶことは出来ます。でも「どのお店に入りたい?」そう言われても、選べないんです。「お肉とお魚とお野菜、何がいい?」と聞かれても、選べないんです。何でもいい、どこでもいいとしか言葉が出てこない。それが、オカシイって気が付いた。二十代はじめの頃の事です。
でも具体的にそれが何なのか、何が問題なのか、良く分かっていなかった。漠然と「オカシイな」と思うだけで。料理も出来たし、何を作ろうかって悩むことは多かったですがスーパーでその時安い物を見つけてそれを主軸に料理を作る事も出来ていたので、別段問題視していませんでした。(料理は好きデス。ちなみに)
ですが、私の「食」への言動は、相方にはとても不思議で、困惑する事が何度もあった様で。
食べたいものが選べない。食べたいものが何も無い。それなのに、どんな状況でも、どんな事態でも、「ご飯を食べなくちゃ!!」と追い込まれている私が居て、相方はとても不思議に思ったそうです。
例えば、不測の事態が起きて食事を食べる余裕が無い(要するに寝坊したとかw)そんな時、「朝ごはんが食べれない!!!」と私はパニックになります。
例えば、体調を崩し食事が取れない、そんな時「ご飯食べなくちゃいけない!!」と無理に大量に詰め込もうとします。
そんな私の姿を見て違和感を覚えたのだそうです。
そして一番の極め付け。外食時「何食べようか」と声かけると、凄く嫌そうに、不快そうに、不機嫌な声で「食べたいもの無いし、なんでもいい」としか答えない私。(尚、私にその自覚は全くありませんでした!普通のつもりだった・・・)
お腹が空いてないのか、体調が悪いのか、とにかく食事がしたくないのだろうと判断し「じゃぁ、食べないで帰ろうか」と提案すると「ご飯食べないの?!ご飯を?!お腹空いてるんだよ?!駄目だよご飯食べないと!!!!」とパニックになる私。
食べたいの?食べたく無いの?どっちなの?????
それが、相方の思いだった事でしょう。今の私ならよ~く分かります。そりゃ困惑しますよねぇ・・・困るってものです。でも当時の私には、その自覚は一切無くて、相方が何を困っているのかすら分かりませんでした。
それらを相方から指摘されて、そこで初めて自分でも異常さに気付きます。何故「なんでもいい」のか、何故「ご飯を食べなくては!」とパニックになるのか。言われるまで漠然とした違和感だけで、その状況を「理解・把握」していなかったんですね。
そこから、相方の力を借りつつ、自分の心と向き合う事になります。
「食べたいの?食べたくないの?」
そう己に問うと、「食べなくちゃいけない!」という気持ちが沸き上がります。食べなくてはならない!という強い、非情に強い強迫観念です。食べない事がまるで「悪」かのように。食べないなんて、有ってはならない!という気持ちが沸き上がるのです。食べたい食べたく無いじゃないんです。食べないといけないんです。
「なんか、食べなきゃダメだって思うみたいで・・・」と、言うと「知ってた」と相方は頷きます。食事が出来ないという状況に追い込まれると、驚く程情緒不安定になる私を何度も見て来たからです。
では、何故「食べなくてはならない」のか。その原因を探ろうとしますが、その時は結局分からず終いでした。結論を言うと、(3)(4)で書いた栄養失調と病気。これが発端です。食の細い子供にガッツリ食べるようにさせるべく、医者の指導の元、親や親族総出で「食べなきゃダメ!」と強要し、食べない事は悪い事だ!と思い込む程に私の心に叩きこんだ・・・という事です。
私は無自覚に「1日3食シッカリ食べねばならない!食べないのは悪い事だ!」と思い込み、それを実行していたのです。それが実行出来ない状況になると自分を責め、罪悪感にさいなまれる程に。
正に(2)で書いた、呪いの一つです。「食べねばならない!」な呪いです。
・・・と、ここまで書いていてアレですが。医者や親、親族がした事は、間違って無かったと思います。だって事実、私はソレで生きながらえたのです。もし食が細いままだったら、身体が病気に負けてしまっていたでしょう。だからコレはこれで、私には必要だった。確かに、ちょ~っと強い呪いでしたけど(笑)。
実際問題、私の身体はとても効率が悪く出来ています。食事を通常量(1人前)とっても、3~4時間後には空腹になります。空腹を放置しておくと、突如体調を崩し倒れます。低血糖の発作が起きて震えたりするんです。または身体が動かせなくなったり、体調不良になるんです。
だから、食べないとマズイんですよ。食べないと生命活動が維持できない。(4)でも書いた通り、実質問題私の身体は栄養不足になりやすく、栄養不足になると途端病に蝕まれる様です。(イマイチこの辺意味不明なのですが・・・)
母がO先生から聞いた話では、幼児期に無理やり栄養素を詰め込み細胞を肥大化させて、それでどうにか身体を維持させた様で。細胞1つ1つは大きく栄養を必要としていて、絶えず供給が必須。そして細胞の総合数は一般の人より少ないので、不測の事態(栄養不足)が起きるとあっと言う間に生命活動に影響すると。
例えば、キーボードにキーが配置されてますね。あの1つ1つが細胞だとして、普通の人は大体同じくらいのキー数で、アルファベットと数字と、TABやshiftや・・・ってあって、キーボードの大きさも同じようなものとして。
でも私のキーボードは、普通のキーの8個分で1つのキーで、キーボードの大きさは同じなのに、配列されているキーの数は人よりうんと少ない、と。その1つ1つが持つ役割が大きくて、どれか欠けても機能しなくなる・・・みたいなイメージでしょうか(分かりにくいかな???)
まぁ、そんなこんなで、私は現実問題食べねば身体が維持出来ず、生命活動に影響するので食べる事は大事な事でした。だから「食べねばならぬ呪い」は私には必要だった。
・・・のですが、この「食べねばならない!」の呪い。これ、数年前からどんどん薄くなってきて、先日多分、解呪されたんだと思うんですよ。んで、この下りを書こうとしたのですが・・・面白くない!
いやいやいや、別に面白い話を書こうとしてる訳じゃ無いデス。ハイ。でもそこの部分は長すぎるし、何より・・・筆が乗らない!! だから、今回は省きます。またいつか書く必要が(自分の気持ち整理で必要だったら)書きます。何せ、ソレはもう心の整理が出来たので解呪されたのですから。
今はもう「食べなくてはならない!」と自分を追い込む事は無くなりました。食べられなかったらそれはそれ~と、思う事が出来るようになりました。食べない事に罪悪感もありません。勿論、食べないと身体がヤバイので食べますし、食べるようにしています。食べるようにしていたんです。
・・・それが、先日「食べられない」と「食べたく無い」に襲われ、食べられない状況になっていました(==;)
あ! 今は少しずつ食べれるようになってます! このnoteを書き出して、気持ちを整理し始めたら食べれるようになりました。なので良かったのですが、まだまだ気持ちの整理が必要なので、自分を納得させるために書きたいと思います。
まず、この「食べられない・食べたく無い」は、上記の「(食べるの)なんでもいい」という話に繋がります。そうです。20代に気付いたコレは、ずっと理由が分からなかった。レストランに入りメニューを見れば、その中から食べたいものをチョイス出来ますし、好物だってあります。「食事の席」についてしまえば、食べたいものを選べるし、食べるし、それは美味しいです。
ああ、いや。違う。違います。本当をいえば、ずっと「食事を美味しい」と感じていなかった。私はずっと、美味しいと思って食べたことが無かったんです。
「好きな味」はありました。「好きな料理」もありました。
例えば、私は小さい頃、祖母の妹である大叔母の料理を食べて育ちました。幼稚園~小学3年くらいの期間のことです。家業の仕事の為に母は食事の準備が出来ず、大叔母の家に預けられ食事をとっていたのです。この大叔母は、(2)の超人祖母の妹です。この祖母も、大叔母夫婦と一緒に暮らしていました。まぁその事はさておき・・・
大叔母が作る和食を食べて育ったので、私は和食が好きです。筑前煮や肉じゃが、椎茸の煮物。特に鶏肉を煮た料理は大好きです。煮るだけでなくても、チキン料理は大好きで、外食すればほぼ90%鷄料理です。美味しくて大好きなのです!
・・・が、言葉では「美味しい」と言っていましたし、自分では美味しいと思っていると思っていました。でも、実は違った。
美味しいなんて思って食べて無かったんですよ(==;)
美味しいって言うものだ。そういう知識から・・・いや、美味しいと思うものだという固定観念から、そう思い言葉にしていたにすぎなかった。
そもそも、じっくり自分の心を向き合ってみれば、食事の席が、食事の場が、楽しいと思ってなかった。苦しいとさえ思っていた。辛いと感じていた。だから、食事の場を決める時にそれが顔や態度に出ていたんです。
無自覚です。自分で全く覚えが有りません。なんでそんなに、食事の場が嫌なのか??? ずっとその理由が分からなかった。でも、実家を飛び出て10年が過ぎた頃。相方と「食」について真剣に語り合って、自分を見つめなおすのを繰り返した結果・・・
食事の席が楽しいと思えるようになった。食事って美味しかったんだって、実感できるようになった。好きな料理を「美味しいね!」と思えるようになった。
やっと、「食事が美味しい」っていうのが、心と脳に通じたというか(*´▽`*)
今では、心から美味しいと思う料理があるし、鷄料理はやっぱり大好き。大叔母はもう故人ですが、大叔母の手料理が食べたいなって思います。今なら全力で「美味しいよ!」て言えるのになって。(大叔母については、長くなるからこの辺にして・・・)
さてここから本題です。己と見つめ合って分かったのは、自分が「食」と「食卓」に対して拒否反応があることです。義務として食べてはいたけれど、食を楽しんで居なかった。苦しいとさえ感じていた。それは何故だろう?
長い事疑問でした。それを、弟が答えてくれました。
去年末の事です。弟が病気をし、食事が物理的に出来なくなりました。完全な絶食状態です。それに伴い、弟と「食」について語り合う機会がありました。その時初めて知ったのです。
弟も、私と同じく「食べたく無い。食卓が辛い」という事を。
驚きました。まさか、弟もだと思ってなかった。でも話を聞いて色々と記憶が蘇ってきました。あ~・・・そういや、そうかもしれない。同じとこいっぱいあるわ・・・と気付いたんですね。そして同志が居た事に、なんとなくホッとしたというか、嬉しかったというか。だってほら、異常だと自分でも思っていたので(^^;)
んで「なんで二人してそんななんだろうね~」と笑って言ったらですね。弟君が言うんですよ・・・「あれ?ねーちゃん覚えてないの?」と。
発端が、あったんですよ。ええ。キッカケがね・・・・。言われて思い出しましたとも・・・ええ。そりゃ、食卓嫌いになるわ・・・と(==;)
それを書きたいところですが、流石に長くなったので、続きは②にて。