(7)食べたくない、食べられないのお話し②
突然ですが、各家庭によって「食卓」の雰囲気とか、ルールとか、それぞれありますよね。家庭によって違うと思うんですよ。3世代大人数で囲む食卓もあれば、核家族の食卓もあれば、独身単独の1人の食卓もあるでしょう。素敵な食事タイムになる家庭もあれば、フードファイトの家庭もあるでしょうし、寂しい食卓もあるでしょう。皆さんそれぞれ、様々な食卓を囲んで来られたと思う。
私の食卓経験は3種類。
まず幼少期、近所に住んでいた祖母と祖母の妹夫婦の家で、祖母の妹(大叔母)の作る手料理を食べた食卓。祖母と大叔母と大叔父と私と弟。そこに両親が揃えば7人の大人数です。その時私は「何があってもシッカリ食べねばならぬ!」の概念を植え付けられる訳ですが、でも記憶の中の食卓はとても楽しい思い出もいっぱいあります。
でも今思えば、私は元々食が細く、本来大量に食べられない子供だったと思う。でも「お残しは許しませんでぇ~!!」というノリで、しっかり食べさせられていました。正直コレが、多分相当辛かったんだろうなぁと思う。でも、あの家での食事は楽しかった。大叔父と大叔母は子供が無く、私と弟を本当に可愛がってくれたし、大事に大事にしてくれた。食卓は何時も笑い声に溢れていたと記憶している。
ああ、でも一つだけ。食事の後の薬・・・。これは嫌な思い出だな。(4)で書いたけど、本当に薬を飲むのが辛くて辛くて。ご飯を食べたら薬の時間がくるから、そういう意味でも食事が嫌だったのかもしれないな、と実はずっと自己分析していたのだけれどね(^^;) それもあるだろうけれど、どうやらそれだけじゃなかった模様。
さて、話を戻そうか。
つぎに、ちょっと間を飛ばして「現在の食卓」。相方である家人と2人の食卓だが、とても楽しい。食事は美味しいものだと気づかせてくれた事を何時も感謝している。外食も楽しいし、家食も楽しいし。体調崩して良く料理が出来なくなる私だけれど、手作りをした時は美味しいと言って貰えて、自分でも美味しく出来たなと喜べて。素晴らしい時間だと思う。
さぁて、問題は・・・実家での食卓である。
私が小学3年生までは、前述の大叔母の手料理を食べて私は育っていた。3食全てでは無かったけれど、でも家で食べるより大叔母の家で食べるか外食が多かった。なにせ、両親は忙しかったからだ。
小学3年生の時だ。祖母と大叔母夫婦が田舎に帰郷した。それは3人の夢で、希望で、とても寂しかったし残念だったけれど、お別れはきてしまった。そして、それ以後私と弟の食育は、母に託されたのである。
まず語っておきたいのは、母は料理が苦手である。母方の祖母はとても料理は上手く、和食がとても美味しいし、私も祖母の手料理は大好きだった。だが、母は・・・料理が壊滅的な人だった(笑)。
今は昔より料理は出来ているし、母が作る料理は美味しい。けれど当時は、魚を焼けば半生。肉を焼けば焼きすぎてカチカチ。カレーをつくれば水っぽいスープ・・・という、本当に凄かったwww でも父は、それでも(文句は言っていたけど)母の料理を受け入れて、何でも美味しく食べていた。
父は、諸事情で思春期に満足な食事を取れていなかった。前述の流れでなんとなく把握した人は居るだろうが、父方の祖母は、祖父と離婚していたのである。父の継母となった女性は、なんとも童話に出てくるような・・・典型的な「ママハハ」だった。その為、食事が満足に供給されなかったのである。
そんな経緯もあって、父は「食べれる事は幸福だ!何でも食べれればいい!出された物は全て美味しく食べる!」という人だった。そして「食」に対する思い入れが人一倍強く、食べる事に貪欲。外食大好きで、チャンスがあればすぐに外食をしたがる人だった。仕事柄、食事をしっかりとって栄養を付ける事も大事だったので、とにかく大量に食べる。「食べる事大好き!」という、寧ろ食べる為に生きている!なくらいだった。
料理が下手な母と、食べる事が大好きな大食漢な父。そして私と弟。その4人だけの食卓がスタートした。最初の頃は、別段問題無かったと記憶している。だが、有る時、事件は起きた。
両親は仕事の関係でパーティに出かけた。私と弟にはお金を預け、夕飯を食べておくように言って二人は出て行った。当時住んでいた家は大型商店街の一角で、家をでて1分でスーパーも総菜屋もパン屋もなんでもあった。食べ物は溢れていた。忙しくしていた両親なので、実際お金を渡されて自分たちで食べ物を買う事も良くあった。両親が居ないで、弟と私の2人の食卓も普通にあった。私はシッカリした長女だったので、弟の世話もちゃんとしていたし、家の事も手伝っていたし、両親は不安なく出て行っただろう。
だが、私と弟は、食が細かった。勿論「食べねばならぬ!」の呪いがかかっているので食事はする。ちゃんと食べる。でも、見張る大人が居なければ、さほど量は食べなかったのである。
弟曰く。その時は、おむすびを買って食べて夕飯を済ませた。お腹はいっぱいになったし、別にそれで満足だった。
しかし、帰って来た父はそれを知って、激怒した。自分たちは美味しいパーティ料理をお腹いっぱいに食べて帰って来た。すると子供はオムスビ1個食べただけで・・・というのは、おそらく父のトラウマを刺激したのだろう。子供の頃食べさせて貰えなかった事。両親は美味しいものを食べているのに、自分は握り飯1つだった事。それを思い出したのだと思う。
激怒した父は、その足で弁当屋に行き、大人用の弁当を2つ買ってくると、お腹いっぱいだという私と弟に完食するように迫った。その気迫。その怒り。多分自分への怒りと、継母への怒りだったのだと思うけれど、当時の私と弟にはそれは分からなかった。ただただ、食べなかった事を怒られ、もう食べられないと泣いて訴えているのに無理やり完食させられたという事しか覚えていない。確か、食べ終わるのは夜中の12時近かったと記憶している。
その時勿論母は止めに入ったが、トラウマスイッチの入った父はそれを良しとしなかった。
私と弟は、泣きながら、何時間もかけて、仁王立ちする父の前で食事をした。
・・・ということを、弟が語ったのだ。「ねーちゃん、覚えてないの?」と。
うわ~・・・あったわ!!そんなことあったわーーーー!!!
言われたら思い出しましたとも。ええ。そうそう。それ以後、父は「家族揃った全員での食事」にこだわり(子供が食べたか見張る為)、家族が揃うまで食事が出来ず、夕飯はいつも早くて夜8時。遅いと夜11時。小学生が、そんな食生活をしてたんですよ(^^;) いや~思い出したわ!!
私が中学生になった頃は、夕方5~6時頃にお腹が空いて体調を崩すのと、弟も同じようにお腹を空かせていたので、私が簡単な料理をしてそれを食べていたのでした。で、勿論夜の食事も食べる、と。だから実家に居た学生時代は1日4食でした。
この実家での「食卓」が、まずもって私と弟に強いトラウマを与えた。書くとなんとも悲しくなるので割愛しますが、正直楽しい食卓では無かった。辛かった。苦しかった。食事の味なんてしません。何せ、父が見張っているのですから。食べたく無くても、具合が悪くても、食べられないような状態でも、必ず食卓について食べさせられた。食事をしないことは許されなかった。「食べねばならぬ!」の呪いに「恐怖」が付与された。
これは、今思えば、立派にDVだなぁと思う(^^;) でもその時は、私は食べないと病気が治らないという大義名分があった事もあり、こう、許されたというか・・・仕方が無かったというか。でも私は多分この時に「食べたく無いのに無理やり食べさせられた」という被害者意識を持ったのだと思う。そしてその時の辛さや、苦しさを、今になって思い出して実感したのだと思う。
去年末、弟とこの話をしてから、私の心の中で、ぐるぐると、消化できない思いが廻ったのだろう。
勿論それはキッカケであって、少し前から、私の「食べたくない」は顔を出していた。去年の秋頃だろうか。仕事帰りに相方と二人、スーパーで弁当を買って帰ろうとしていた時だ。沢山並ぶ惣菜にお弁当。美味しそうな物が沢山あって、好きな物も沢山並んでいた。・・・筈なのに、私はパニックになっていた。
何も、選べない。何も、食べたく無い。食べ物を見ているのが辛い。
何か選ぼうと思うのに、震えて手が出ない。焦っているうちに涙が出てきて、それに気づいた相方が何を察したのか「食べれそうな物を適当に見繕うね。食べれたら食べればいいし、食べれないなら今すぐ食べないでいいんだから」といって弁当を選んでくれた。
正直、自分で何が起きたか分からなかった。今思えば、その頃に「食べねばならぬ呪い」が解呪されたのだろうと思う。食べなくて良いと思えるようになったら、確かに「食べたくないなぁ」と心をよぎる事が多くなったのは自覚があった。食事は美味しいし、食卓は楽しいのに、「ご飯食べたくないなー」と心の中で誰かが呟くのである。けれど空腹にはなるし、食べないと倒れるのが分かっているし、「しゃーない。食べるか―」と思い直して食べていた。そんな事が続いていたのは事実だ。けれど、食べ物を前に震える程拒否反応が出たのは、それが初めてだった。
そして、弟の言葉をキカッケに思い出した「食卓の恐怖」。
スッカリ忘れていた。実は私は、OL時代に鬱病とパニック障害と不安症を患った。その時に紆余曲折あって、記憶障害が一部起きていて、忘れている事は沢山あった。それ以前にも、病気の治療やなんやらで倒れると、どうにも記憶があやふやになった。医者に言わせると、自分の心を守るために忘れたのだということだけれど、おそらくそういう経緯で私は記憶を封印していたのだろう。
その辺を思い出してしまった。食べねばならぬ呪いは溶けて、食べない事に罪悪感が無くなったその直後に。多分、それも強く作用したのだろう。
そこへ、先日の喘息発作。引き金だったことは明白だ。
実家に居た頃、私は酷い喘息発作を頻繁に起こしていた。一度、大発作を起こすと3日3晩呼吸困難が続く。私の発作は「息が吸えない」という発作で、「ヒッ」と一呼吸吸った後に気管支が塞がり酸素が入ってこないというものだった。酷い酸欠になり、正座をし前かがみに両手を床に付いた姿勢のまま3日間ただ息をすることだけを考えて過ごす。動くと酸素を必要とするため動けない。食事も出来ない。寝る事も出来ない―――――のにも関わらず、父は「食事をしろ」と私に強いた。今にも酸欠で死にそうな私に。
実際食事など出来ず、私は3日間暖かい紅茶数杯と、チョコレートを何個か食べるだけしか出来なかった。けれどそれでも、毎度父は食べろと私に怒ったし、O先生の元に連れていかれる時は父と二人だったのでそこでレストランに連れていかれ、食べるように強要された。
食べねばならない!でも、呼吸すらまともに出来ず食べるのは不可能!!!でも食べろと怒る人が目の前にいる!食べないと駄目だと自分でも思う!!食べないのは悪だ!でも食べられない!!!でも食べなくては!!!
ああ。これを書いていて涙がボロボロと出てくる。
本当に、辛かったのだ。あの頃の喘息発作は、地獄だった。酸素不足で朦朧とした意識のなかループする思考。本当に辛かった。
喘息発作についてはまたいつか改めて書きたいと思っているが、とにかく、私は十代の中盤くらいまでそんな喘息発作に襲われていた。発作が軽くなったのは十代の終わりくらい。高校生になった頃だ。その後二十代からは、そこまでの酷い発作を起こすことは減っていた。勿論、軽い発作はあった。でも食事が取れない程の発作はとんとご無沙汰してたのである。
それが先月末、インフルAに罹患した時だ。インフルエンザの症状は大したことないのに喘息発作が酷かった。久々に寝れない日々。食べられない日々。ついでに逆流性食道炎(持病である)も併発した。ますます食べられない。
・・・が、私は今、食べなくてもいいのだ。無理に食べる必要は無い。誰も見張っていない。食べろと怒る人は居ない。喘息で息が苦しくて、胃が痛くて、食事なんて出来やしない。でもまぁいっか食べなきゃいいさ!!! ―――と、実は、すごく、すご~~~~~く心が軽かった。驚くくらい、気持ちが楽だった。食べれるようになったら食べればいいや!と、数日間ろくに食事をしなかった。食べていたのは、相方が買ってきてくれたチョコレート。久々に食べたチョコは美味しいし、満足感もあるし、全然それでOKだった。それどころか、食べないその期間、なんだか気持ちが晴れやかだった。喘息発作は辛いし、体調は悪いのに、「食べないでいいって楽だな~」とか感じていた。
それが、不味かったんだと思う(==;)
そうこうしているうちに、インフルエンザの感染期間も過ぎ、喘息も大分楽になってきた。逆流性食道炎も薬が効いたみたいだ。これなら食べられそうだなーとなって、食卓についた時だ。
箸が、持てない。
そして心の中に浮かぶ言葉は一つ。
「食べたく無い」
驚いた。何が起きたのかと思った。箸が持てない。箸で食べ物を掴んでも口に運べない。口に無理やり放り込んでも噛めない。
―――食べられない。
そう気づいた。正直に相方に言うと「無理に食べなくていいよ」と言ってくれた。それが何度も続いた。
とりあえずチョコレートを食べてた。お腹はすかない。食べ物は見たくない。完全なる拒否反応が出ていた。
やっちまったーーーー!!と思った。
いくつもの要因が重なった。昔の記憶を取り戻した事、辛かった事を改めて思い出した事、食べなくてもいい状況。食べられない喘息発作。もう、全部いっきにくるっとひとまとめにして、ごちゃごちゃっとして、何か上手い事、いや全然上手く無いんだけれど・・・鍵が外れてしまったんだと思う。
それで、食べられなくなった。
うわぁどうしよう?!と頭の中がグルグルした。心の中がぐちゃぐちゃになった。酷い焦りがあった。
だって、食べないと、この身体・・・すぐにダメになる。
インフルで弱ってたところに、栄養取ってないとか、まずいだろコレ!!という焦り。事実、動けない。布団から起き上がれない。体調不良が無くならない。アチコチ不具合も出て来た。キタコレ全然嬉しく無いヤツ!!! OLの時一度ダイエットして突然不調が出てO先生に怒られたヤツ!!! 死ぬぞって言われたヤツーーーーー!!!
どうしよう、が頭と心を占めた。パニックだった。相方は冷静に私を見ててくれたけど、私はぶっちゃけ負の感情ループに陥って、抜け出せなくなっていた。
そしたら相方が、私の思いもよらぬ一石を投げ込んでくれて。(1)で書いたけれど、本当に思わぬ言葉で。
でもそれで、落ち着いた。落ち着いたら、どうすればいいかが見えて来た。自分の心を見直そうと思った。見直すにはどうしたらいいか? そうだ。語ろうと思った。自分の気持ちを文にして見直そうと。文章にしていると自動書記状態になるので自分が自覚していなかったことが見えてくる。後で読んで自分で驚く事が書いてあったりする。言葉でもいいのだけど、言葉は消えてしまって、忘れてしまって、なんだっけ???てなってしまうから、文章に書くのがいい。
そして私は、noteをはじめた。
そしたら、あれよあれよ。不思議。ちょっとだけど、拒否反応出ずご飯が食べられるようになってきた。箸が持てた!口に食べ物を入れても大丈夫だった!まだ完全ではないけれど、「美味しい」を思い出した。食べられるようになった。
あーよかった。ほんっと良かった。
多分ね。要因は色々なんだよ。食べたく無かったのに食べなきゃ駄目になった事や、無理に食べさせられた事。楽しく無い食卓。それも全部関わってる。あと、(4)で初めて書いた「太るの怖い」の感情。これ、実はあの文章を書くまで自分でハッキリ自覚してなかったんだ。書いてはじめて思い出したんだ。あの恐怖と嫌悪。食べたら太るから、食べるの、嫌だったんだ。
そう、インフルで病院にいったとき、体重を書いた。この10年変わってない体重。数字を見て、改めて目で見て「うわあ・・・酷いな」と思ったんだ。それも多分きっかけだ。
この流れを、一部始終を、書けて良かった。お陰で自分の心が見えた。自分の本音が見えた。そして冷静になれた。
人って、つい自分の気持ちをごまかしたり、嘘をついたりする。それは自分に対しても起きる。私は私自身に嘘をいっぱいついていた。誤魔化しまくっていた。それが自分で分かった。
そして、見つめ直す事で思ったこと。
食べるの、嫌いなんだなほんとは。どんなに必要でも、そんなものは関係なくて、食べたくないんだ。
けど、それは、自分を殺してしまう事だ。
あんた、死にたいの?
そう心に問うと、NO!と帰ってくる。良かった。死にたい訳じゃないんだ。でも食べたくない。でも、しゃーないね。嫌なこといっぱいあったもんね。そりゃ嫌になるよね。でも、困ったねえ?どうしようか。困った困った!てアワアワしたり、被害者になって泣いてても何も解決しない。どうしたらいいかね? さあ、どうしたい?
相方に導かれて、今の私はこんな感じ。
そしたらさ?
「あんまり好きじゃないけど、でもちょっとくらいは、食べてあげてもいいよ」て。胸の奥底で、誰かがいった。「辛かったのわかってもらえたし」と。
そしたら、食べれるようになった。良かった。
ありがとう。
私の中にいる「食べたくない私」に、お礼をいう。食べることにしてくれてありがとう。
そして今日も、相方が買ってきてくれたお総菜を食べた。食べられた。美味しかった。たぶん、これで大丈夫。もう大丈夫。
Twitterで食べられなくなったことを書いてしまい、心配してくれたふおろっわさんが何人もいる。もう食べられるようになったと伝えて喜んでくれた。ありがとう。ありがとう。
こんな経緯でした。驚かせてしまいごめんなさい。でも、こんな人間もいるんだと、何かしら参考にしてもらえたら嬉しい。参考になるかさっぱりわからんけど(;゜∇゜)
そんな訳で。もにゃさん、noteはじめて良かったよ! 実はこの手のトラウマ案件まだまだあるから、多分また書く。全然自分で納得出来てないことありまくるからね(;・∀・)
次は、何を書こうかね? 物心つく前から被ってた偽者仮面の話とか? それで多重人格気味だとか。イジメの話も、他の病気の話も、沢山あるなあ・・・。
書きたくなったら、また書きます。とりあえず、今日はこれにて。